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倫理の進化

倫理の進化

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若樹

若樹

Headline News

2012.07.20
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カテゴリ:思想
今、私は生きている。

そして、数は変わったし、つまりはメンバーが大きく変わったが、犬も、猫も、まだいる。
約60名程だ。


ここではっきりと真実を受け止めて頂きたい。

2006年5月19日以降の活動は、私の責任を持って始められていない。

私は、もう無力だった。

そうでなければ、あんな辛い思いをして、本当に命を絶とうとしない。
私には、助けられたとて、活動出来る力はなかったし、自分に対しても、社会に対しても、活動を行う上での責任の、保証も覚悟も出来なかった。


ここまで、何の責任も、公には知らせず、追及もせずに耐えてきた。

でも、もう終わりだ。

私は今の、犬猫の保護活動の、本当の責任者を明らかにする。

私の養父と、他に一人、テレビの報道にも出、週間女性自身(2007年10月と、12月に取材を受け、二回掲載されている)の記事に写真と、名前を出して写っている、玉手と言う男だ。


この二人は、私が玉手と地主さんに無理やり助けられた後、もうこれ以上は、私には出来ない。
子供たちを新しい場所へ連れて行く力もない。
そのお金や、活動を維持するお金を稼ぐ力もない。

頼むから、子供たちは、保健所へやらずに薬殺を、私はどうか死なせてくれと、懇願したのを「自分達が助けるから」と、もう出来ないのだと繰り返す私を説得し、全く自信がないと言うにも関わらず、「自分達が協力するから、もう一度頑張れ」と、二人で私の手を引いて、勝手に歩き出してしまった。


故に、2006年、5月以降の北海道は、弟子屈、標茶における犬猫の保護継続の活動は、この時の彼らの決断によって再開した。
私は、継続を無理やり説得された、ただの被害者だったと今告発する。

はっきりと述べるが、私は表立ってはただ一人の責任者に見えただろうが、実際、それまでの経験と実績と、元々の責任者であった為に、どうあがいても、その裏側のやり取りを知らない人間全ての目には、私だけが、責任者として映って来た事だろう。そして、私はこれまで、この二人の責任を、世間から庇って、自分だけが逆風を浴びて生きて来た。

理由は、彼らには、何の実績もヴィジョンも信念もないから。
ただ、考えなしに事情を全部分かった上で私を助け、動けないほど弱った私の手を二人で引いて、ずるずると私の不安や思いと逆に、後先の責任も考えず、もう、「出来ない」活動を、再開させただけなのだ。

父は、お金は自分が協力すると約束した。
そして確かに、標茶の土地を買った。
だが、自殺するまで弱った私と、その私が働いて、面倒見ていた犬や猫を、私が回復するまで食べさせるには、相当の出費が必要で、その額が把握出来るや否や、奴は私達から逃げ出した。

まだ、仕事もなく、全く収入もない私と犬猫を、「助ける」と言って、死なせなかったにも関わらず、今度は生きたまま、生きる術がないと、予め充分に言っておいたにも関わらず、土地を買ってから間もなく、逃げた。

私の楽天ブログ、2006年9月11日に、父への記事が掲載されている。
その前日の10日が、父の誕生日だったからだ。

私はまだ、父が自分の始めた事の責任を、果たしてくれる事を願っていた。
しかし、記事の最後の方に、しっかりと、「最近は連絡が取れない」と言う事を書いてある。

そう、書いている文章とは裏腹に、この頃私達は既に見捨てられていて、食べ物さえ充分に食べれなかった。
携帯に、電話をしてもいつも留守電。

メールをしても返事は来ない。
たまに、やっと電話に出たと思って、頼むから、生きさせたんだから、責任持ってお金を送ってくれと言って訴えると、何曜日に入金するから、と、約束して電話を父は切る。
そして、その約束された日に、お金が銀行に振り込まれる事はなかった。

私は、自分の勤め先に、借金をしながら子供達と何とか食べて来た。
だから、余計な手助けをするなと言ったのに、と、何度怒って叫んだ事か。

この時は、玉手も一緒に憤慨していた。
あれでも、幾ら義理とは言え、父親か、と。

結局、父は私からの電話にはとうとう全く出ず、代わりに玉手が、お金の事で、父に電話をかける役割になった。

玉手からの電話なら、父もたまには出た。
でも、相変わらずお金は、殆ど送られる事はなかった。

私は、9月15日にお店を先生からあり難くも与えられ、そこで働き出したが、以前のホテル勤務の時は、月給は最低13万、プラス出来高制だったのだが、町中に出したお店での給料は、完全出来高制になってしまった。

開店したばかりで、顧客の全くいない店は、暇で、先生も、お客がつくまで2~3年は、辛抱なのだと言っていた。

給料は、手取りで月に10万行くかどうか。
以前は、ホテルも忙しかったから、毎月13万所か、17~8万にはなっていた。
ギリギリだったが、やり繰りするには何とかなった。

無理やり助けられ、土地を買うよう進められ、買ってしまったはいいが、子供達を引っ越させると言うのに、その時には完全に逃げていた。

現在も逃げている。
私が何度電話しても、留守電にしている。

この男の話は、後で事実を洗いざらい告発するとして、もう一人、玉手だ。


この男、元々単なる飲み友達の一人で、地元では大きな誤解の噂を立てられているが、男女の関係は一切ない。

父に、自分がお金を出すから、どこか犬達に新しい土地を買ってやろうと強く迫られ、仕方なく、私は自分が以前、南弟子屈の土地に越す前に、候補地の一つとして紹介された、標茶の土地に、父と玉手を案内する事にした。

もう、何十年も使われていない林道は、倒木や雑草に覆われ、道を間違えないだけでも大変だった。

よく晴れた日だった。
父は、私の自殺が未遂にされた二日後くらいに北海道へ来て、一週間ほどはいただろうか。
その間の事だ。

目的の土地は、車を降りて、徒歩で約4キロ。
半分程行った所で、父がリタイアし、自分は待っているから、玉手と二人で土地を確認して来る様にと言って、樹の根元に座り込んだ。

私は玉手とそのまま歩き、ついに土地の前に流れる川の所まで来た。
余りに遠く、携帯の電波も全く届かない。

その為、土地としてはいい環境だったが、私は数年前、ここを借りる事を諦めたのだ。

しかし、父が地主さんを説得し、犬達を処分されない様にしたはいいが、立ち退き猶予は一ヵ月後と言う、無茶苦茶な話だった。

私は完全にお手上げだった。

ヤケクソで、唯一知っている、すぐに手に入るその土地を教えた。

私は、何の自信もなかった。
玉手に、川の所で聞いた。

あんた、自分が手伝う、体力面は協力するって言うけど、動くとしたら、場所はここなんだよ?

本当に子供たち移したら、一人ではここ、世話をしに通い切れないよ?
途中で、嫌になったじゃ済まないんだよ?

冬は、除雪入らないんだよ?
二人だったら、交代でやるとか、何とか出来るかも知れないけど、一人じゃ絶対無理。

それで、私はもう限界なんだから、あんたが責任もてなきゃここは買わないよ?
半端な事じゃないんだよ、出来るの?
途中で止められるくらいなら、最初からやらない方がいいんだからね。
「俺が手伝うから死ぬな、死ぬな」って言うけど、本当に出来るの?

もう、くどいくらいに聞いたさ。

「俺はちゃんとやるよ。投げ出したりしないから。」

玉手は、繰り返し約束をした。

結局、弟子屈の役場の担当の人にも、父が土地を買い、玉手が手伝うから、処分は止めてくれと言う事になって、そして、私が昔始め、2006年の5月までで、一度完全に終わったはずの活動が、私の不安をヨソに、二人の男の決断の下、再開する事になったのだ。


そして、最後まで私は決断を渋った。
万一、この二人が途中で止めてしまったら?
こんな辺鄙な所に犬を移し、世話を一人で出来る訳はない。

私は、自分しか、事犬猫に関しては特にー信用しない人間だった。
そして、活動の大変さを、身を持って知っていた。
この二人は最後まで、私の様に責任を果たせるか、全く信用出来なかった。

自分自身なら、信じられる。
責任も、覚悟も持てる。

でも、今回始める再活動は、三人の力が揃わなければ、無理だ。

一人で出来ないなら、やりたくない。

何度も父と玉手と話し合った。
しかし、二人とも私に繰り返し説得をした。

「やるしかないだろ。」

「ここまで頑張って来たんだから、協力するから、最後までやり通せ。」


特に玉手はこう言った。
俺は、いい加減な所があるから、自分を変えたい。
その為にも、自分の問題だと思って頑張るよ。

そう二人に詰め寄られて、子供たちの命と、保証を天秤にかけた時、二人の男が言った約束を、信じない訳には行かなかった。

と言うよりも信じるしかない状況に、私は追い込まれた。

そして、父はわずか二ヶ月の後には逃げ、玉手は、本格的に手伝い出してから、半年持たず、

「もう面倒臭い。ボランティアなんてやるもんじゃない。もう飽きた。俺はやりたくない。」を連発した。

2006年の5月から、玉手はそれまで、時たま遊びに来た時に、世話を手伝う程度だったのを、仕事の休みの土日、必ず手伝う様になって、その世話の仕方は後で述べるが惨憺たるものだったが、兎に角、私と役場で話し合い、こちらから狂犬病予防法違反で、起訴してくれと頼み、マスコミが一斉に集まり出した、2007年7月までは、そんな感じで手伝ってた。

その一年の標茶の山への、犬達の引越し、その前の段階の柵作り、冬のドッグフードを引いた橇引き、等はある程度、楽天ブログに記録してある。

「試される大地」と言う、毎年未完に終わった連載だ。
最初の冬は、月曜日から金曜日までは、余程の事がない限り、一人で頑張って橇を引いた。
玉手は、主に土日のみ、手伝った。


マスコミの取材が来て、役場の非常勤職員だった玉手は、自分も活動を手伝ってる旨をテレビで語り、それも手伝って、役場でそうした行動を、批判される事になった。

結局、町長から、仕事を取るか、女を取るかと聞かれ(町長の完璧な勘違い。付き合ってません。)、自分は、女目当てにボランティアを手伝っているんじゃないし、一度決めた事を辞める気はないと言って、自分の母親や、私の制止を無視して、退職してしまった。


立派だと思うだろう。

しかし、これから凡そ五ヶ月程経った2008年の1月には、その言葉をさっさと取り消して、「もう手伝いたくない。役場も辞めなければ良かった。」と、私に平気で毎日愚痴る様になった。


だから、最初からいい加減な気持ちならやるなと言っただろうと、私は毎日言い返した。
ここまで来たら、「辞めたい」は通用しない。
最後まで、責任持たないでどうするのかと。


それでも玉手は、「あの時はそう思ったけど、実際やると簡単じゃない。こんなのやるもんじゃない。」を連発し、私は2月にとうとうキレた。

もういい。
手伝わなくていい。

死ぬまで一人でやるから、あんたは勝手にすればいい。

本当に奴はそれで逃げた。

私はそれから二週間、真冬の最も寒い時、たった一人になって橇を引き、とうとう過労と心労で、胆嚢に砂が溜まって、それが破れて倒れてしまった。

約一ヶ月半、私は寝込み、結局仕方なく玉手は動いた。

私がようやく動ける様になった4月から、玉手は徐々に、逃げて行った。

「やろう、頑張ろう。」

そう言って、活動を継続させた当の二人が逃げて、結局、最後まで、私はもう出来ない、やる力がない、と言った私が一人残された。

それから、約一年、玉手は一切手伝わず、私は一人で頑張り続けた。
「女性自身」を見た、読者のうち二人、共に本州の人だがーが、その間に私達を訪ねてここまで来て、色々起きたが、関わっていた。





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Last updated  2024.05.06 09:58:37



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