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NHKの大河ドラマ「平清盛」を見ている。
二人で見ているが、時々時代背景などをもう一人に説明せね ばならない。 そうしないと話が江戸時代や鎌倉時代になったりしてしまうからだ。 そこで、最近その時代に関する本や雑誌をパラパラと開く 事が増えた。 そんな切っ掛けで「新潮社トンボの本(法然のゆるし)」を買い 求めて読んでいる。 昨日は「保元の乱」のことを放映していた。 法然はこの時「24歳」。1156年(保元元年)。 比叡山で修行をしていたが行き詰まり「下山」した年。 日本人は朝日も拝むが夕日も拝む。 夕日はゆっくりと西の方に沈み、何となく荘厳ではあるが寂しい 姿でもある。 そして、その西に「あの世」があるという思いが日本人のDNA の中に組み込まれている。 著名人の告別式などTVで放映されるが「あの世で待っていて 下さい」というような弔辞が読み上げられることがあるが、この 時の「あの世」のイメージは「西方」である。 湖東病院を創ったとき玄関を「西向き」にすることに拘った。 その理由は「死亡退院」の時、その方を西の方向の玄関から お見送りする事を考えたからである。 日本人独特の西にあの世があるという「あの世」観はいつ頃から 出来たのかというと、縄文時代からという説が強い。 縄文時代?と思ってしまうが縄文時代は約一万年程続いた時代です。 大きな夕日が「西に」沈んで行く様を縄文人は厳粛な気持ちで捉えて いたのでしょうか? この時から平安時代辺りまで、つまり「平清盛」時代辺りまで日本人は 生と死を水平方向で考えていたらしい。 生まれ、そして死に、西方の夕日の落ちる辺りにありそうな「あの世」 に行く、そんな水平思考ですから「そこは今と少しも変わらない所」と いうイメージではなかったのか、と思います。 だから、弔辞で述べられる「私も暫くしたら行きます。そしたらまた 仲良く過ごしましょう」という言葉が日本人には違和感なく受けいれ られるわけです。 だが、私の愚考ではあるが、多分この「保元の乱」辺りから、あの 世についてもう一つの考えが入ったのではないかと思います。 それは「天国」と「地獄」の考え方。 天国は上で地獄は下、の考え方。 つまり、水平思考に上下思考が加わったわけです。 余計厄介になりました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2012.05.28 07:43:04
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