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天の王朝

ハーバード経済日誌(3)

●授業あれこれ
ショッピングの末に私が取った学科は、ジム・ハインズの「経済分析(ミクロ経済)」、スザンヌ・クーパーの「応用マクロ経済」、リチャード・ライトの「マネージャーのための統計分析」、マービン・カルブとトマス・ピーターソンの「メディアと政治」、キャサリン・ドミンゲスの「国際金融市場」の5単位。

前にも書いたように私は、学部ではフランス文学(卒論は不条理演劇で知られるサミュエル・ベケット)を専攻していたため、大学では経済をまったく勉強していない。ただ経済記者を8年間やっていたため、経済や金融分野の「土地勘」はあった(大学で経済を専攻していなくとも経済記者になれる。科学部の記者も同じ)。今回、経済の科目を多く取ったのも、記者として経験的に知っている経済とは異なる理論上の経済をしっかり勉強しておきたかったからだ。本当は、「なんだ、経済の専門家はこんな現実とは異なることを勉強していたのか」と、つぶやけるようになりたかった。

さて、私が選択した五教科の特徴は、いずれの教授も学生による総合評価で4・0以上の高い評価(最高は5)を得ていたことだ。ハインズ准教授はエール大卒業後、ハーバード大学で経済博士号を取得した。専門は税制でとくに多国籍企業の税制について詳しい。米商務省などで働いた後、プリンストンやコロンビアで教えていた。

このハインズ准教授の奥さんは、私が取った「国際金融市場」のドミンゲス准教授で、やはりエール大学で経済学の博士号を取得した才媛だ。中央銀行による為替介入の効果を分析した本も書いている。二人とも准教授で「テニュアー(終身教授の地位)」にはなっていなかった。学生からの人気では、二人とも超トップクラスだ。総合評価でハインズは4・87、ドミンゲスも4・46の評価を受けていた。3点台の評価を受ける教授が多く、中には2点台の教授がいることを考えると、二人の評価は驚異的に高い。

しかし、彼らも翌年にはハーバードを去らなければならなくなる。この辺が厳しいところで、いくら学生から人気があっても、自分の研究分野で論文をどんどん発表しないと、テニュアーが取れないのだ。推測するに、ドミンゲスに比べこれといった論文を書いていないハインズが、大学側から半ば追い出されたのではないだろうか(あるいはテニュアーが取れないとわかって、他大学へ移ることにした)。夫がハーバードを去るので、ドミンゲスもハーバードを去ったような気がする。

二人がハーバードを去る直前に、構内のカフェテリアで二人に会って話をする機会があった。「あなた方のように学生から人気のある教授が去ってしまうのは残念だ。これからはどこで教えるのですか」と私が問いかけると、ハインズが「ハーバードもよかったけど、今度シカゴへ行くことになったよ」と、少し寂しそうな顔をして答えたのを覚えている。さらに「シカゴは寒いと聞きましたが」と私が聞くと、二人そろってこう答えた。「それは大丈夫。ボストンで慣れているから」

●授業あれこれ2
私が取ったジム・ハインズのミクロ経済のコースは、API101というコース番号が付いている。101というのは入門コースに付けられる番号だ。かつてジョン・F・ケネディ大統領は、新聞記者から「なぜ減税をするのか」と質問され、こう答えた。「経済を刺激するためだ。君たちは経済101を覚えてないのか(To stimulate the economy. Don’t you remember your Economics 101?)」

101は必修科目である場合が多く、ケネディ・スクールでもミッドキャリアの学生かそれに準ずる学生以外は必修科目になっていた。大勢の学生が取ることになるので、AからEまで5クラスに分けられた。Aは微分を使うクラス、Eは主に都市計画やデザインを将来専攻する学生のためのクラス、そのほかは微分を使わないクラスで、それぞれ別々の教授が教える。

私はミッドキャリアなので、101を取る必要はなかったが、何しろ経済学を大学レベルで履修したことがなかった(教養課程では一度だけ取った)ので、好奇心も手伝って取ることにした。しかも半ば無謀にも、微分を使うAコースを選んだ。そして何を隠そう、私が取った5コースのうちいちばん苦戦したのが、このミクロ経済だった。経済部の記者なら、マクロ経済のことは経験的にわかるが、ミクロ経済となるとほとんど遭遇することもない(つまりあまり現実的でない)事象だからだ。微分などの細かい計算方法や法則も、私はすっかり忘れていた。

授業は月曜と水曜の八時半から一〇時までの週二回。金曜日には経済の博士課程を取っている助手の学生によるレビュー(復習)のクラスがあった。このレビューのクラスは大変役に立ち、その週でやった難しいところを解説してくれる。なるべく「落ちこぼれ」が出ないように救済するシステムともいえる。さすがに授業料を二万ドルも払っただけあって、学生に対するケアが行き届いているな、と思ったりもした。

この救済システムは統計やマクロ経済、国際金融のコースにもあり、金曜日はレビューのクラスが目白押しとなっていた。私も大いに「救済」されたことは言うまでもない。

●授業あれこれ3
ジム・ハインズのミクロ経済がどのような内容だったかを、一部だけ紹介しよう(今日は少し難しい話になります)。

たとえば、私たちが購入する財(モノ)やサービスには、消費者の所得が増加すれば需要も増加する普通財と、所得が増加すると逆に需要が減少する下級財がある。具体的には大型カラーテレビやパソコン、海外旅行が普通財、小型テレビなどは下級財となりうるといえよう。所得水準が低いときは小型テレビで済ましていていたが、所得が上がり大型カラーテレビを買うようになると、この人にとって小型テレビは下級財になるわけだ。

さて、これは実際に1996年10月に行われた中間試験に出た問題。

ケネディ・スクールのカフェテリアで出される飲食物は、すべて下級財(すなわち、所得が増加すれば、みな外のレストランに食べに行ってしまうような財とサービス)である。大学当局はビジネススクールの学生に比べてはるかに貧しいケネディスクールの学生のために、カフェテリアに補助金を与えた。その結果、カフェテリアの飲食物の価格が10%下落した。

問題 カフェテリアの飲食物の価格と需要量の関係を示した通常の需要曲線のグラフを書き、価格の下落によってどのような影響が出たかを示せ。

答え 縦軸に価格を、横軸に需要量をとり、価格が低いと需要が上がる右肩下がりの需要曲線を描く。価格がP1からP2に下落したとき、当然のことながら、需要量はQ1からQ2に増加するというマーシャルの需要法則が成立することを示す。ただし下級財の場合、もう一つのケース(マーシャルの需要法則が成立しない場合)も示さなければならない。
これが、ごく稀にあるとされるギッフェン財と呼ばれる場合で、ある価格帯において価格が下がると需要も低下する財だ。簡単に言うと、カフェテリアがいくら値下げしても、その値下げ分の魅力が外へ食べに行くという魅力を上回らないケース(自分の小遣いが上がった場合)がある。この場合、値下げしたカフェテリアに行く回数は減り、外に食べに行く回数が増える。グラフ上では逆S字型のカーブを描く。その変形した曲線上で価格が下がっても需要が増加しない部分(つまり右上がりの曲線部分)を示せばいいのだ。

これはまだ簡単な問題の部類。微分が加わって面倒くさい計算式を解かなければならない問題も試験に出る。結局、複雑怪奇な消費者の行動を、グラフなどに簡素化・簡略化して説明しようとするため、ミクロ経済学は現実の経済活動とは異なる計算上の理論(机上の空論?)になってしまったように思われる。一方経済学者は、簡素化・簡略化したからこそ複雑怪奇な経済・消費活動がわかりやすくなったのだと主張するだろう。

どちらの主張を取るかは、皆さんのご判断に委ねます。

●授業あれこれ4
統計学のリチャード・ライト教授も、学生による総合評価が4・75というスーパースターだ。教育機関の評価など統計学的に分析・解析するのが専門。95年には科学的解析手法に多大な貢献をしたとしてポールラザースフェルド賞が贈られている。

ライト教授のすごいところは、難しい統計の分析法を本当にわかりやすく講義してくれることだ。別の大学で統計を履修したことのある経済学の修士号を持っている学生も、「あのように難しい統計を、こんなに簡単にわかりやすく解説する教授を見たことがない」と舌を巻いていた。

ライト教授の手法は、徹底的に例題で統計学を覚えさせることだ。基本的な法則を教えた後、あらゆるパターンを想定した問題を学生に解かせる。学生たちは多種多様な問題を解いていくうちに、自分の疑問点が整理されて、いろいろな対処法を自然に覚えてしまう。ロールプレーイング・ゲームでいえば、問題をこなすうちに「経験値」がいつしか上がってしまうのだ。

唯一問題があるとしたら、学生たちがあまりにもよく理解してしまうので、成績に差がつかず、逆にわずかな点差でグレードに差が出てしまうことだ。たとえば、100点満点中95点までがAで、92・5点までがAマイナス、90点までがBプラス、85点までがB,80点までがBマイナスなど、たった五点差の中に大勢の学生がひしめき合うことになる。ちょっとしたミスがグレードを分けるから気が抜けない。

学期中に3回試験があり、その総合点でグレードが決まった。私は最初の2回はかろうじてAをキープしていたが、最後でBプラスを取り、結局Aマイナスで終わった。BプラスとAの差はわずか5点ほどだった。私のクラスメートで韓国から来ていたジャーナリストの学生は、ちょっとしたミスから最後はBマイナスを取ってしまったと、嘆いていた。80点も取って、Bマイナスは厳しい。

しかしこのコースを取った学生は、統計学的な考え方の基本をしっかりと身に付けることができるようになる。このため毎年大勢の学生が、ライト教授の授業に詰め掛けるのだ。

●授業アレコレ5
リチャード・ライトの統計学がどのような内容だったか、その一部を紹介しよう。

ライト教授の統計学のクラスで、最初に出された宿題9問のうち最初の問題は次のとおりだ(カッコ内は私の解説)。

米国の教育当局は、すべての小学生について失読症(本がまともに読めないジョージ・W・ブッシュは「重度の失読症」であることはよく知られている。失読症は、アメリカでは深刻な問題になっているらしい)であるかどうかを調べることにした。そこで当局は、特別に訓練された心理学者に、すべての小学生を対象に失読症を見分けるためのテストを実施させた。その結果、当局はすべての小学生の10%が失読症であるとみなすことができた。ただし当局は、心理学者の誤診の割合は5%ではないかとみている。

問1 すべての小学生をテストした結果、心理学者に失読症であると診断された小学生の、実際に失読症である小学生に対する割合はいくらか?

答え 0・1×0・95(失読症と診断された小学生)を0・1×0・95+0・9×0・05(実際に失読症である小学生)で割る。つまり0・679。

日本語で書かれていれば、そんなに難しい問題ではないが、英語をちゃんと理解しなければならないから、結構難しくなる。ただ日本人は、数学では一般的なアメリカ人よりかなり優れているから、記号や方程式があると理解度が増すようだ。逆に数学が得意でないアメリカ人の友達は「英語で書かれているのに何が書いてあるのかわからない。まるで外国語を読んでいるようだ」と話していた。

●統計学と超能力
ライト教授の統計学のコースを取ったおかげで、私も統計学に対する理解が深まった。1990年ごろに取材した防衛大学校の大谷宗司教授(当時、専門は心理学)が「超能力(の存在)は統計学的にはもう証明されている」と語ったことも、よく理解できるようになった。

つまり、厳密な条件のもとでエスパーカード(波型、丸、三角、四角などの5~6種類のカードで、裏から読み取るためによく使われる)を使って超能力実験を行って統計を取った場合、超能力が存在しないならカードが当たる確率は5分の1ほどだ。もちろん実験の回数が少なければ、まぐれで全部当てたりするが、実験の回数を増やせば、その確率は五分の一にかぎりなく近づいていく。ところが、何度やっても5分の2以上の確率でカードを当てるグループなり個人が出てくる。その場合、実験回数が多くなればなるほど統計学的には、カードを裏から読み取れるという特殊な能力をもったグループなり個人が存在する可能性が強まると判断する。

大谷教授の実験では、それが起こったという。何百回、何千回とやっても5分の2以上の確率でカードを当てる人は統計学的には「超能力者」である。仮に5回のうち3回はずれても、いつも2回当てることができるならば、その人は普通の人とは異なる特殊な能力を持っていると判断せざるをえない。そういう特殊な能力を持っている人は確実に存在する(ある意味で、超一流のスポーツ選手も超能力者といえる)。ただ問題は、まだそのメカニズムがよくわかっていないというだけだ。

しかしこんなことを書いても、世の中には依然としてテレバシーなどの超能力が存在しないと思い込んでいる人がいるのは、私には驚きでもある。

20年ぐらい前に、NHKの「サイエンスQ」という番組で超能力を取り上げたことがあった。NHKにしては珍しくまともな番組で、中国の気功師が風などを遮断したケース内に立てられたろうそくの炎を、「気」を入れることにより交互に右と左に倒していく実験や、天井からぶらさげたCD(LDだったかも)を気の力で動かすなどの実験を実施してみせた。気を送った被験者と施術者の気功師の脳波パターンが同調する実験もあり、画期的な番組ではあった。

しかしNHKができるのもせいぜいここまで。最後に司会者(たしか山川静夫)は「あなたは超能力を信じますか」と番組を締めていた。自ら厳密な実験をしておいて、それを「信じますか」と問いかけるのはどういうことか。科学的に考えれば、超能力は信じるか信じないかの問題ではないはずだ。

頭から超能力を否定する人には、是非、ライト教授の統計の授業を取ることをお薦めしたい。少しは科学的な思考を身に付けることができるかもしれない。

●試験
前にも述べたが、9月10日ごろから始まった授業も10月中旬頃になると、「待ちに待った」中間試験が始まる。「久しぶりの学生(ミッドキャリアの学生)」にとっては、本当に久しぶりに学生の緊張感を体験することができた。

試験といっても、コースによって様々だ。まるでファーストフード店のように、教室の中で試験問題を解く「インクラス試験」、問題を受け取り、家に持ち帰って決められた時間内に問題を解く「テイクホーム試験」がある。試験の代わりに決められた数のペーパーや論文を出す場合もある。

テイクホーム試験なら、友達と相談して解けるだろうと思われるかもしれないが、それはしてはいけないことになっているし、事実上できない場合も多い。とにかく問題の量が多く、論文を書く場合が多いため、友人と相談する暇もない。たとえば朝の9時に試験問題が配られて翌日の午後5時に提出しなければならない試験では、家に帰って必死に関連する資料を読み、夜を徹してそれに対する論文を書き上げなければならない。資料を読むだけでも一苦労だ。

インクラス試験では、英和・和英辞書や計算機の持ち込みが認められた。といっても、辞書をあれこれ使う暇はあまりない。インクラス試験には、教科書を持ち込んで試験中に読むことができるオープンブック試験や教科書は持ち込めないクローズドブック試験がある。多くの場合、その場で問題が示されるが、1週間ぐらい前に問題が10問提示され、実際のインクラス試験では、その中から3問出すような試験もあった。学生は10問すべてに対する答えをクラスメートと一緒に考えて事前に作っておき(ただしそれがいい答えなのかどうかはわからない。教授も学生に考えさせることを優先させるので明確な回答を示さない)、それをある程度暗記して臨むことになる。

インクラス試験は短時間で終わるが、出来は体調にも左右される。テイクホーム試験はマイペースでできるが、長時間拘束される。私の場合、いちばんやりやすかったのは、インクラスでもテイクホームでもない、かなり自由なテーマで論文を書き、提出できるコースだった。一発勝負的な要素がなく、緻密に論文を書き上げることができるからだ。

こうして10月末までに中間試験が終わると、ほどなくニューイングランド地方には、世界でも最も美しいといわれる紅葉の季節が訪れる。

●ニューイングランドの紅葉と血塗られた歴史
ニューイングランド地方とは、ハーバード大学があるマサチューセッツ、アケイディア国立公園で知られるメイン州、1905年に日露戦争の講和会議が開かれたポーツマスのあるニューハンプシャー、『サウンド・オブ・ミュージック』で有名なトラップ一家が移り住んだストウのあるバーモント、富豪たちの大邸宅が多いロードアイランド、マーク・トウェインが暮していたコネティカットの六州を指す。そのニューイングランド経済の中心地がマサチューセッツ州ボストンだ。

1620年、メイフラワー号で「新大陸」を目指した清教徒の一行は、現在のマサチューセッツ州プリマスに上陸、この地に新たな英国を築こうとした。この地方がニューイングランドと名づけられたのはこのためである。

当時のニューイングランドには、もちろんネイティブアメリカン(インディアン)が居住していた。彼らはイギリスからやって来た白人たちに、食料を分け与えるなどで多大な援助をした。白人たちは11月第四週の木曜日に、その「収穫」を祝う感謝祭(サンクスギビング)をするようになった。ネイティブアメリカンは野生の七面鳥の捕り方なども白人たちに教えたので、感謝祭には七面鳥を食べるようになったのだという。

ところがやがて白人たちは、ネイティブアメリカンたちを追い払いはじめる。彼らの居住区を奪い、最後はご存知のようにインディアンに対する大量虐殺が始まる。恩を仇で返すとはこういうことをいうのだろう。

私がハーバードで取った授業では、アメリカのこうした血塗られた歴史を取り上げなかったが、私のクラスメートのフィリピン人留学生が歴史のコースを取り、そうした歴史の現実に触れ「白人たちはこんなにひどいことをやっていたのか」と、がくぜんとしていた。いつか詳しく触れるつもりだが、アイヌが和人にどのように殺されていったかを考えるとき、インディアンの歴史と同様、悲しくなる。

そうした歴史はさておき、ニューイングランドの紅葉は素晴らしい。マサチューセッツ州には、モホーク・トレイルという東西に伸びる紅葉街道もある(かつてはネイティブアメリカンのモホーク族が暮していた)。飛行機で上空を飛んだことのある人ならわかると思うが、ワシントンDCからニューヨークまでは建物が立ち並ぶ灰色の景色が続く。ところがひとたびニューイングランドの上空に入ると、眼下にはざわざわと緑の海が広がる。それが紅葉すると、それはもう夢のような世界だ。

ただそこに、かつて血塗られた歴史が展開されたことを考えると、紅葉の赤が悲しみと怒りに満ちた血の色に見えてしまうこともある。

●アイヌの歴史1
おそらくアイヌの歴史を知らない人が多いと思うので(私も最近までよく知らなかった)、ニューイングランド(アメリカ)の血塗られた歴史を紹介したついでに、アイヌに対する血塗られた歴史についても触れておこう。

658年に阿部比羅夫による「蝦夷征伐」があったことが知られているが、古くからエゾやアイヌは「まつろわぬ民」として、繰り返し攻撃の対象とされてきた(エゾとアイヌの関係については、同一であるという説と異なるという説がある。いずれにせよ、東北地方にアイヌ語の地名が多く残っていることから、両者は密接な関係があったと思われる)。

『吾妻鏡』などによると、13世紀ぐらいまでは、北海道(夷島)は流刑地扱いされていたようだ。15世紀になると、奥羽地方北部の諸豪族が津軽海峡を渡って北海道に移り住むようになる。和人豪族とその家来、商人らは北海道南部の松前や函館に「道南十二館」と呼ばれる12の砦を築く。

移住してきた和人は、先住民アイヌに鮭、昆布、熊や鹿の毛皮などを獲らせ、それを本州に運んで利益を上げていた。しかし和人はアイヌを「愚直の者」などと呼び見下し、アイヌを脅したり、だましたりして搾取するようになったため、和人とアイヌの間でしばしば抗争が起きるようになった。

1456年には、アイヌの若者が和人に殺害されたことをきっかけに、積もり積もったアイヌの怒りが爆発。翌57年、指導者コシャマインに率いられたアイヌ軍は、「道南十二館」のうち十館を陥落させることに成功した。だが、コシャマインとその息子はだまし討ちに会い、射殺される。その後も和人は、アイヌ側が優勢になると、和議の酒宴を開いては、その場で酔ったアイヌたちを討つなどという卑怯な策略を駆使して、支配権を確立していった。

つまり、「桃太郎」以来、「悪い鬼」を退治するために常套手段として使われている卑劣な詭計が、善良なゆえに「愚直」なアイヌに対しても繰り返し行われたのだ。

●アイヌの歴史2
豊臣秀吉から蝦夷地全島(北海道)の支配権を認可された松前の和人豪族蠣崎慶広は、天下を取った家康にもうまく取り入った。姓を松前に改めて松前藩とし、1604年に家康から「蝦夷地に出入りする商人その他の者は松前藩の許可が必要であり、これを破る者は松前藩の手で処刑してもよい」というお墨付きを得る。

松前藩は道南を「和人地」に指定、アイヌを辺境の「蝦夷地」へ封じ込めた。だが、和人たちはその蝦夷地をも侵食しはじめる。初めは友好を装っていた和人は、アイヌに対し極端に不平等な産物交換を強要するようになる。アイヌ側が強制された数量の物産を納入できないと、罰としてさらに不当な交換を強いて、それも達成できないとアイヌの子供を質に取ったりもしたという。

こうした不当な搾取と圧制に、アイヌは再び怒りを爆発させる。1669年、日高のシペチャリ川(現在の静内川)に城砦を構えたアイヌの統領シャクシャインは、東西のアイヌ二〇〇〇余人とともに一斉蜂起。和人の交易船などを襲いながら、道南へと攻め入った。アイヌの弓に対し松前藩は鉄砲で応戦。攻勢に転じたのを機にアイヌに和議をもちかけ、酒宴を開いた。その酒宴の夜、酔ったシャクシャインは斬られ、アイヌは敗北する。

この結果、松前藩によるアイヌへの搾取と圧制は一段と厳しくなる。アイヌは絶対服従を強いられ、事実上の「奴隷」として使われるようになる。アイヌから収奪されたイリコ(ホシナマコ)などの産品は、中国への貴重な交易品となった。

18世紀半ばになると、帝政ロシアが千島列島に進出。通商を求めて根室地方にやって来た。北方からの脅威を感じた幕府は、蝦夷地調査隊を派遣。その調査結果をもとに、幕府内では全国の「穢多(エタ)」7万人を移住させ、北海道を開拓すべきだとする計画が立案されたが、推進派の老中・田沼意次の失脚もあり、計画そのものが消滅した。

●アイヌの歴史3
18世紀後半、和人の圧制に対するアイヌ民族による最後の組織的蜂起が起きる。その背景には、国後島や根室地方など北海道東部の交易権や漁業権を松前藩から手に入れた商人・飛騨屋による、先住民アイヌに対する暴虐・非道があった。飛騨屋の現場監督は、アイヌ女性を犯したり、命令に従わないアイヌは打ち殺したりした。

1789年、妻を和人に殺されたマメキリを頭にして国後(クナシリ)のアイヌが蜂起、同様に過酷な労働を強制されていたメナシ(アイヌ語で東方の意)アイヌもこれに加わり、交易所や交易船を次々と襲撃、和人71人を殺害した。これに対し松前藩は、総勢260余人の鎮圧隊を派遣、アイヌ軍と対峙した。

事態を収拾するため、国後アイヌの長老ツキノエらがほう起したアイヌに武器を置くよう説得し、交渉による穏便な解決をめざした。ところが松前軍は和人を殺害に加担した38人を特定させ、逃亡した一人を除く37人を見せしめのため処刑、斬首した。このときさらに多くのアイヌが虐殺されたとの説もある。

これがクナシリ・メナシの戦いと呼ばれるアイヌ最後の抵抗であった。これ以後、アイヌは徹底的に管理・弾圧され、山歩きに必要な山刀(タシロ)も取り上げられたという。

当時のアイヌに対する差別と虐待の有様は、旅行家松浦武四郎の『近世蝦夷人物誌』などに詳しく書かれている。そのほか貴重なアイヌ見聞録としては、菅江真澄の紀行文『菅江真澄遊覧記2』の中の「えぞのてぶり」がある。

アイヌは1871年の戸籍法公布とともに「平民」に編入されるが、戸籍には「旧土人」と記載され、事実上「二級国民」扱いされた。翌72年にはアイヌの文化や風俗も取り締まり対象となり、女子の入れ墨や男子の耳輪が禁ぜられた。アイヌの土地も大半は剥奪されたうえ、古来の生業である狩猟や漁業も明治政府により事実上禁止され、違反すれば「密漁」として罰せられることになった。

こうして生活基盤を奪われたアイヌの中には、生きる望みを失う者も出てくる。生活は困窮し、肺結核や和人が持ち込んだ梅毒が多くのアイヌの生活を蝕んでいった。

●アイヌの歴史4(最終回)
アイヌの悲惨な生活状況を「改善」させるという名目で、明治政府は1899年、北海道旧土人保護法を公布・施行した。しかしこの法律はアイヌを徹底的に差別し、アイヌの民族性と文化を著しく損なうものでもあった。法律により設立されたアイヌ子弟のための小学校にしても、目的は天皇制国家の忠実な「臣民」となるよう、アイヌ文化やアイヌ語を「撲滅」させることに重点が置かれたようだ。この法律はまた、農業を営もうとするアイヌは優遇したが、漁業などの生業を営もうとするアイヌにはいっさい援助は出なかった。

ただ、大正期に入ると、明るい兆しも見えるようになる。和人による不当な弾圧・差別に抗議するアイヌの魂の叫びが、本の出版などを通じて取り上げられるようになったからだ。これに伴い、アイヌの文化や言語を守ろうとする動きも出てきた。

こうした動きは戦争で中断されるが、太平洋戦争で天皇制帝国主義が崩壊すると、再びアイヌ解放運動の機運が高まる。世界五大叙事詩のひとつであるともされるアイヌのユーカラも筆録(「金成まつユーカラ集」など)され、人類の貴重な文化遺産はかろうじて「撲滅」を免れた。

さて、時代を少し遡る。
アイヌがクナシリ・メナシの戦いで最後の抵抗を示していたころ、同じような先住民に対する迫害が18世紀のオーストラリアでも始まる。1788年、1044人(大半は流刑囚)の乗ったイギリス船団がオーストラリアに到着、先住民であるアボリジニの土地への侵略と徹底した迫害を白人たちが開始したのだ。

ちょうど和人がアイヌに対してやったように、白人入植者たちはアボリジニを「野蛮人」(本当は白人こそ野蛮人であった)と見下し、抵抗するものは虐殺しながら、入植地を増やしていく。白人が持ち込んだ天然痘のような病気や梅毒によってもアボリジニの人口は激減した。

インディアン、アボリジニ、アイヌといった誇り高き民族がこのころ、地球上で相次いで迫害、虐殺されていたわけだ。

現在、北方領土問題で日本政府は「北方四島はわれわれ日本人の祖先が開拓したわが国固有の領土」などと称しているが、アイヌの歴史を知っているなら、北方領土がアイヌのものであり、つい二〇〇数十年ほど前に和人が侵略、強奪した島であることを認めざるをえないだろう。真実の歴史を直視する能力があるなら、北方四島はアイヌにこそ返されるべきである。

アイヌの虐げられた歴史については、ホームページ「アイヌと日本人」http://www.tcn-catv.ne.jp/~ikenobunko/sub2.htmが詳しい。今回の「アイヌの歴史」に関しては、花崎皋平の『島々は花綵』やブリタニカ大百科事典などを参考にした。

●成績2
中間試験が終わると、学生たちは初めて、それぞれの試験や論文・ペーパーに対するグレード(成績)というものを受け取る。ミッドキャリアの学生にとっては、社会人として培ってきた「知恵」と「力量」を試されるわけだ。

その成績をめぐっては、学生と教授の間でもめることもある。特に設問に答える形式の試験ではなく、ある程度自由に書くことができる論文やペーパーだとなおさらだ。もめるときはたいていの場合、なぜこんなに低いグレードなのだと、教授に食ってかかることが多い。とくにミッドキャリアの学生はプライドも高く、教授とほとんど対等か、もっとえらそうにしている人もいる(実際、年齢も上回っているケースが多い)。

そういう場合、教授側は「これは相対評価であり、もっといい論文やペーパーがあったのだ」などと説明するようだ。きっちりと点数と成績の関係を明記して、成績の分布グラフも公開することが多い。学生の参考にするために、Aを取ったペーパーを張り出す場合もある。

英語文化に慣れていないと、教授側の論文やペーパーに対するコメントを誤解するケースも出てくる。ペーパーに対する論評を教授がする場合、アメリカでは俗に言う「サンドイッチ・メソッド」を使う(もちろん例外はある)。つまり、身(肉)の部分をパンで挟むように、本当の言いたいこと(身の部分)を真ん中にもってきて、最初と最後(パンの部分)はどちらかというと社交辞令的なコメントを持ってくるのだ。

たとえば、「あなたのペーパーはよく書かれている」と、最初は通常ほめる。ところが、教授が本当に言いたいことは、次に来る「だが、この点とこの点が分析不足だ」とか「議論が十分でない」であることが多い。それでも最後は「努力を認める」「よくまとまっている」などとほめて終わる。

すると、最初と最後だけを見た学生は、「教授はほめてくれているのになぜBしかくれないのだ」と勘違いすることがある。イスラエルから来た学生は、まさにそう言って、教授に食って掛かっていた。

ただ所詮、成績は記号や数字。その人の人間としての価値を決めるものではない。客観的な論評部分だけを参考にして、あとは「何を勝手なことを言っていやがる」ぐらいに思っておけばいいのではないか。

●泥棒とアメリカ文化と関西人
アメリカも泥棒が多い。同級生で中国から来た実業家のニューは、夏休みの間だけで自転車を相次いで二台も盗まれた。フィリピンから来た留学生で、アキノ政権下で閣僚として働いていたラフィーは、アメリカの泥棒について、街で面白いものを見たと言って次のような話を披露した。

ボストンの下町。路上に止めてあった車に目立つように張り紙がしてあるので、なんだろうと思って覗き込んだところ、Sorry. The radio has already been stolen.(残念でした。ラジオはもう盗まれています)と書かれていたというのだ。つまり、泥棒にわざわざ「もう盗まれているよ」と張り紙を出さなければならないほど車上荒らしや車泥棒の被害が多いということらしい。

私自身は自転車や車を盗まれた経験はないが、厚かましいアメリカ人がいるのには、びっくりしたことがある。新聞泥棒だ。アメリカの新聞配達は大雑把で、寮やアパートの入り口のところに山積みにしておいたり、寮の中まで配ってくれたりしてもドアの前の廊下に置いてあるだけ。うっかり寝坊して10時ごろ新聞を取り込もうとすると、なくなっていることがよくある(新聞社に電話すれば再配達してくれる)。10時までに新聞を取り込まないやつが悪いんだと言わんばかりだ。ちゃっかり者の泥棒の中には新聞本体は盗らないで、織り込みチラシの中にある、モールなどのクーポン券(これを持って行くと20%引きなど安く買い物ができる)だけを持っていってしまうやつもいた。

こんなことを書いたらおそらく関西の人からは怒られるかもしれないが、アメリカ人の厚かましいメンタリティーは関西人に通じるものがあるような気がする。又聞き(確か「天声人語」にも書いてあったと思う)なので正確ではないかもしれないが、大阪で開かれた花の博覧会での話。花博も好評のうちに終わり、最終日に事務局も後片付けに追われているとき。ある関西人が、展示が終わった花を見て「もう、花は必要ないんやろ。持って帰ってもいいんとちゃうか」と言って花を取ったのをきっかけにして、回りにいた人がわれもわれもと、それまで展示されていた花を根こそぎ持ち去ってしまったという(もし事実関係が違っていたらごめんなさい。もちろん関西の人が皆、このように厚かましいとは思っていません。責任転嫁するわけではないですが、次のようなサイトもあります。「あきれた関西人」http://blog.goo.ne.jp/ahochaimannen/e/db72176ec948ffc1f1958154fca2dab4。ご参考までに)。

このメンタリティーがアメリカ人の厚かましさに似ていると思う。朝の10時になっても新聞を取り込まないのだから、持って行ってもいいのではないかとばかりに、新聞を失敬するからだ。もちろん犯人を捕らえたわけではないから、本当にアメリカ人がやったのか、あるいは留学生がやったのかは定かではない。しかし、次に引っ越したワシントンDCのマンションでも、同じことがたびたび起こったところをみると、アメリカ社会の中ではこうしたことは常態化しているのではないかと思わざるをえなかった。

●成績3
私はそんなに優秀な学生ではなかったが、要領がよかったので、GPA(11月26日の日記参照)で3・52とソコソコの成績を残した。つまり、選択した9科目のうち5科目がAマイナスで、4科目がBプラスだった。最初の秋学期は4科目がAマイナスで1科目がBプラスだったので、後半失速した(化けの皮が剥がれた)ことになる。

ハーバードで修士課程を修了した後、次に学んだジョンズ・ホプキンズ大学国際高等問題研究大学院(SAIS)では、保守的な教授と闘いながらも(「極左」扱いされたこともあった)GPAは3・58だった(一科目がA、四科目がAマイナス、三科目がBプラス)。大学の学部時代のGPAが3・18だったことを考えると、各段の「進歩」だ(前にも述べたが、一年コースの場合、卒業するには8科目でGPAが3・0あればいい)。

日本での学部時代の私は、専攻したフランス文学では、ほとんど落第生といってよかった。私が通っていた大学では、フランス文学を専攻した学生は少なく、別にセミナーでもないコースなのに、学生が私一人だけというクラスもあった(本当はもう一人、事前登録していた学生がいたのだが、夏休み期間中に自殺してしまった)。一回約3時間、マンツーマンで講義してくれるので、予習をするのは当然で、遅刻・欠席することもできなかった。おかげで今でも、アポリネールやボードレールの詩がスラスラ出てくる。出来の悪い学生にもかかわらず、唯一の学生ということで、よく我慢して教えてくれたものだと感謝している。

私が本当に「落ちこぼれ」だったのは、もう一人のフランス人女性講師のクラスだった。そのクラスを取った学生は四人。授業はフランス語で行われたが、何を言っているのかさっぱりわからず、いつもフランス語で怒られていた。不思議なことに、怒られていることだけは、フランス語であったにもかかわらず、よくわかった。

その講師の授業は通算で3回取ったが、もらう成績はCばかり。完全に「落第生」のレッテルを貼られていた。このままやられっぱなしではいけないと、卒論だけは力を入れて書いた(卒論もフランス語で書かなければならなかった)。当時からペーパーを書くのはそれほど苦にならなかったので、地道に調べながら、辞書と格闘しながら、当然独力で卒論を仕上げた。自分で言うのもなんだけれど、理路整然としたいい卒論だった(卒論タイトルは『サミュエル・ベケットの演劇におけるゲームとプレイの概念』)。

これに驚いたのは、件の女性講師だ。これまでの授業中における私の「実力」から判断して、このような論文は書けないはずだと、邪推された。その邪推のせいか、最初は「Aマイナス」と言っていたグレードが、難癖をつけられ「Bプラス」に下げられた。その大学ではAマイナスはAと、BプラスはBに分類されるため、私の卒論はBとなった。それでもようやく、CというレッテルからBに「格上げ」になった。

ハーバード大学ケネディ・スクールへの入学願書では、大学時代の恩師らの推薦文が必要になる。そのような推薦文を頼めるのは、卒論の担当だった女性講師(現在は教授)しか思い浮かばなかった。電話で推薦文を依頼すると(推薦文と言っても、実は自分で勝手に英語の推薦文を書き、内容を了承してもらいサインをもらうだけ)、卒業して10年以上も経っていたが私のことを覚えていた。そして私にこう言った。「あの論文は今でもよく覚えているわ。本当にあなたが書いたの?」

私に対するレッテルは、月日が流れても、剥がれていなかったわけだ。

●入学願書とTOEFL、GMAT
昨日、入学願書の推薦文を書く話に触れたので、今日はその続きで、アメリカの大学院に入学するためには何が必要かを簡単に話そう(ただし9年前の話)。

必ず受けなくてはならないのは、TOEFL。95年当時、TOEFLは667点満点でいわゆるアイビーリーグ(蔦に覆われた建物があるから)と呼ばれる名門大学院に入るためには、最低600点必要だとされていた(現在はTOEFLも点数方式が変わったらしい)。

この600点というのは意外と難しく、私も最初に受けたときは583点止まりだった。これではいけないと、参考書を買って勉強を開始、準備万端で二回目の試験に臨んだはずだった。そして、今度こそ600点を超えただろうと思ったら、なんと590点だった。

3回目も590点で、このままでは願書の締切日までに600点を超さないのではないかと焦った。この話をコロンビアから来た同級生であるヘンリーに話したら、やはりTOEFLには苦労したと話していた。ヘンリーも何回か受けた後、ようやく600点に達したという。どこの国の留学生も結構、苦労しているのだ。

私の場合は、ひょんなことから600点を超すことができた。当時私は、会社を辞めるつもりだったので、再就職がより楽になるビジネススクールに行こうか、それともジャーナリズムの職業とも関係のある国際問題や経済を勉強する大学院に行こうか迷っていた。それで一応、ビジネススクールの願書を出すために、GMATというビジネススクール専用の試験を受けることした。

GMATも当時、名門大学のビジネススクールに入るためには600点は必要だとされていた。私も問題集を買って勉強し、受けてみたが、結果は540点しか取れなかった。GMATは、毎月のようにあるTOEFLと違って、年に2回しか試験が開かれない。しかも英語の読解は本当に難しい。春のGMATで600点に達しなかったということは、秋の試験では確実に600点を超さなければならない。背水の陣を敷かなくては・・・。

そこで生まれて初めて、大学受験でも通ったことのなかった予備校なる所に行くことにした。予備校の名前は忘れてしまったが、御茶ノ水にあるGMAT専門の予備校に約10万円を払って入学。毎週土曜日計8回通った。

実は、これがよかった。GMAT用の読解や文法の問題をパターン別に演習していくうちに、TOEFLの点も上がりはじめ、600点を楽々突破して630点に到達。願書提出前最後のチャンスだったGMATも、たった8回の予備校通いで100点もアップ、640点を獲得した。

TOEFLとGMATで600点を超したということは、米国のトップクラスのビジネススクールに入学できる可能性がかなり高くなることを意味していた。GMAT予備校恐るべし。確かにネイティブに近い真の英語力があれば、いい点数が取れるだろうが、それだけの英語力がなくても予備校で受験テクニックを学ぶことで、試験でいい点を取ることができることを知った。10万円の価値はあったかもしれない。

●入学願書と推薦文
TOEFL、GMATでまずまずの点を獲得したならば、次に仕上げるのはエッセイと推薦文の作成だ。推薦文(社会人の場合)は、直属の上司(今の仕事の内容をよく知っている人)や大学時代に教わった教授(アカデミックなパフォーマンスを評価できる人)を選ばなければならないケースが多い。

推薦文も、恩師や上司に「お願いします。英語で推薦文を書いてください」などと頼んでもやってくれるはずがない。英語で書いた推薦文をたいていは自分で書く。つまり、上司用、教授用、だれだれ用と自分で書き分けるのだ。当然、サインだけは当人にしてもらう。場合によっては、書き直しを求められるケースもあるだろう。複数の推薦文を一人で書くため、同じ文体や内容にならないよう結構、気を使う。

エッセイでは、自分の欠点を踏まえながら、その欠点を補うような長所を強調するのがコツだといわれている。推薦文もそうだ。あまりにも美辞麗句でほめたてる、あるいは自慢する一方の(歯が浮くような)推薦文やエッセイだと客観性が疑われる。英語のネイティブに相談するのもいいが、あまりにも完璧な英語だと、逆に勘ぐられる場合もあるようだ。適度に日本的な英語で、しかし完璧に通じる英語であればいいように思う。

大体、完璧な人間などいないのだから、自分がすごく立派な人間であるように描くのはまずい。大学側はむしろ、人生で多くの失敗をして、それをどのように乗り越えたかといった具体的な話を聞きたがるようだ。実際に、そのようなテーマのエッセイを書かされる場合が多い。

「具体的」というのは、英語でも日本語でも文章作成のキーワードだ。おそらく学生の人はこれから、入社試験などで作文を書かされるのではないかと思うが、抽象論ではなく自分の体験に根ざした具体的な作文を書くと評価される。作文の書き方については、毎日新聞の元記者が提唱した有名な「カンカラコモデケア」の原則を含め、この日記でも取り上げたいと思っている。

●願書提出と授業料
さて、推薦文、エッセイ、TOEFL、GMATのスコアがそろったら、いよいよ願書提出だ。私は冬になっても、依然としてビジネススクール(GMATとTOEFLが必要)に行こうか、政治・経済系の大学院(TOEFLのほかにGREという試験を受けなければならない場合もある)に行こうか迷っていたので、両方に出願した。

今、手元にハーバードの願書(注:願書は早めに取り寄せる。電子願書を受け付ける大学も多いので、ホームページでチェックを)がないので、政治・経済系の大学院であるSAIS(ジョンズホプキンズ大学)の願書を参考にして話す。

SAISの秋学期入学の願書締め切りは1月15日(年によって違うかもしれないのでご注意を)。願書審査代(当時は50ドル)、願書フォーム(いくつかの質問がある)と500語以内のエッセイ、学部時代の成績表(大学から直接送らせる)、推薦状3通(うち一人は必ず大学関係者、つまり教授や講師でなければならない)、英語の実力を評価できる人による評価書面などが求められた。SAISの場合はGREを受ける必要はなく、TOEFLだけでいい。ハーバード・ケネディスクールもGREは特に必要なかったと記憶している。

とにかく3つもの推薦状を手に入れるのは、本当に大変だった。会社を辞めるので、上司は最後の最後にして、大学時代の教師や取材先の人に頭を下げて、推薦状のサインをもらった。「なかなかよく書けているよ」とほめてくれた推薦人もいたが、「ちょっと書きすぎじゃないの」と苦言を呈する推薦人もいた。

いずれにせよ、願書を提出してしまえば、後は「果報は寝て待て」。二月ごろから四月ごろにかけて、続々と「合格通知」や「不合格通知」が届く。

私の場合は幸運なことに、全部で五校(うち3校はビジネススクール)に願書を提出して五校とも「合格通知」が届いた。しかも、頼んでもいないのに、特待生として「2年間で1万2000ドルの奨学金を出す」と書いてあったビジネススクールもあった。

結局、ビジネススクールで「金儲け」を勉強するのは私のキャリアに合わないと判断、ハーバードとSAISを選んだ(そのせいで今でも「金儲け」とは縁の遠いことをしている)。SAISには一年間の遅延入学手続きをして、2年の修士号コースではなく一年の修士号コースに変更してもらった。

以上、入学までの道筋を簡単に説明したが、本当に大変なのは、年間2万ドルという授業料をどのように工面するか、かもしれない。私の場合は14年間も働いていたので蓄えが十分にあった。93年の円高局面(一時1ドル=79円までなった)では、せっせとドル預金して800万円で9万ドルを買った。1ドルを89円で買った計算だ。その後96年の1ドル=130円のレートで9万ドルを手に入れるためには1200万円近くかかっただろうから、400万円近く余計な出費をしなくてすんだわけだ。

二年目の授業料2万ドルを払う当てがないまま留学した人もいた。しかし、その学生も無事、二年間で卒業できた。「アメリカにはいくつもの奨学金制度があるので、なんとかなるものだ」と、その人は話していた(熱意と交渉能力があれば、意外とうまくいくときもあるらしい)。奨学金制度ではなく、学生のための低利ローン(基本的に、将来働くようになったときに返済する)もあり、多くのアメリカ人学生が利用していた。



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