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天の王朝

古代飛騨王朝を探して

「竹内文書」の謎を解く

筑波山
◎第一部 謎の技術集団
(五回続きの一)
▼不思議な南北ライン
 深く青い富山湾の海が、行く手を拒(こば)んでいた。波頭は風にあおられ、白く、無数に牙をむく。対岸は、どう目を凝らしても見えない。視界に入ってくるのは、リアス式のようにくねくねした此(し)岸(がん)と、その先に広がる海ばかりだ。
 私がやって来たのは、石川県鳳至郡(ふげしぐん)能都町(のとまち)の羽根海岸。入り組んだ入り江が続く中で、比較的開けた直線状の海岸だ。羽根八幡神社までが町営海水浴場になっている。神社の鳥居が富山湾に向かって忽然と立っている。岸辺に出ると、北陸の海風が顔に当たった。本当に見晴らしの良い日に来れば、富山湾の向こうに雪に覆われた北アルプスの山々の山頂部だけが、うっすらと水彩画のように姿を現すことがある。
 この奥能登の地が、飛騨位山と関係があることを知る人は少ない。一〇〇キロ以上も離れた位山と奥能登は、実は羽根という地名で結ばれている。位山の真南にある萩原町の羽根と能都町の羽根は、南北一直線上にある。それだけではない。位山を通る東経一三七度一一分の経線上に、富山市の羽根、愛知県岡崎市の羽根、愛知県渥美半島の赤羽根とまるで誰かが測ったように南北一直線に連なっているのだ。
 これを偶然とするには無理がある。むしろ誰かが意図的に、位山をほぼ中心に据えて、羽根という地名を南北に配置したと考えるべきではないだろうか。それを調べているうちに、私たちが知っている歴史に登場しない「古代飛騨王朝」の存在が浮かび上がってきた。

第一部 謎の技術集団
(五回続きの二)
▼地名の由来
 羽根という地名が意図的に配置されているのだとしたら、いつの時代に誰が地名を定めたのだろうか。それぞれの地元で聞き込みをしたが、いつごろから羽根という地名があり、どんな由来があるかを知る人はもはやいない。唯一頼りになるのは、村史や町史といった資料や地名辞典だ。
 奥能登の羽根は、一五一八年三月に能登を旅した冷泉為広の「能州下向日記」に「ハネ」が出てくる(『日本歴史地名大系』平凡社刊)。江戸期には羽根村として登場、伊能忠敬の大図にも記載されている。富山市の羽根は、江戸初期(一六〇四年)に「はね村」として登場するとある。岐阜県萩原町の羽根については、江戸期には存在しており、地名の由来は、良質の陶土が出たので埴土(はに)村と称したという伝えがあるが不詳だという。愛知県の赤羽根は、鎌倉期に赤羽根郷として登場。地名の由来は、赤いネバ土が多いところからきたのだそうだ。
 興味深いのは、岡崎市の羽根の由来だ。古代土(は)師(じ)部の住地で、埴土が産出したことに由来する(旧岡崎市史)のだという。戦国期に羽禰郷とも称され
た。
 「古代土師部の住地」――。羽根という地名の由来をこれほどまでに明確に記した公式の記録は、ほかにない。羽根は埴土(はに)であり、土師(はじ)一族が住んでいた土地なのだろうか。土師一族とは何者なのか。

第一部 謎の技術集団
(五回続きの三)
▼古墳の製造
 大相撲は日本の伝統スポーツとして多くの人に親しまれているが、その国技のルーツを知る人はそう多くない。その相撲の起源説話に登場するのが、土師一族の祖先とされる野見宿禰(のみのすくね)である。
 『日本書紀』によると、野見宿禰は垂仁天皇の時代、日本初の展覧相撲で勝利した褒美に、宮仕えを許される。野見は天皇に、君王の陵墓に生きている人を埋め立てる代わりに、埴輪を陵墓に立てることを進言。それが高く評価され、以来、土師臣となり、天皇の喪葬(みはぶり)を司るようになった。つまりこのときから、野見を祖先とする土師一族が古墳の設計や製造にもかかわるようになったのだ。この一族からは、後に菅原道真が出ている。
 古墳製造にかかわるということは、それだけの土木技術を持っていたことにほかならない。当然、その技術の中には方位の測定も含まれるはずだ。旧岡崎市史に書かれているように、岡崎市の羽根に土師部が住んでいたのだとすると、羽根のラインを策定したのが土師一族か、部民を含む土師一族の関係者である可能性もある。歴史小説家の故八切止夫によると、土師部は「はしべ」とか「はにしべ」と読むが、土器とも書き、これが美濃の土岐氏となったという。土岐氏が住んだ場所は岐阜県土岐市周辺。そして、驚くべきことに土岐市は東経一三七度一一分の羽根のライン上にあるのだ。

第一部 謎の技術集団
(五回続きの四)
▼反大和朝廷勢力
土岐という地名は古く、平安期には郡名として登場する。『日本書紀』天武天皇五年(六七六年)四月二二日の条に「礪杵(とき)郡に在る紀臣訶佐麻呂の子を東国に遷して、即ち其の国の百姓とせよ」と記されている。同じく『日本書紀』朱鳥元年(六八六年)一〇月二日条には、大津皇子事件の際、皇子に加担したとして、帳内礪杵道作という者が捕らえられたと書かれている。礪杵道作は伊豆に島流しになったが、その氏姓からみて、当時の土岐地方を本拠地にした地方豪族とみられている。
 ここに、土岐一族や土師一族のヒントがあるように思える。大和朝廷に不満を持つ地方豪族だった可能性が浮上してくるからだ。土岐がある美濃地方の隣の飛騨にも、反大和朝廷勢力がいたことはよく知られている。伝説にもなっている両面宿儺(りょうめんすくな)という人物だ。飛騨地方を統治していた古代の王との見方があり、地元では天皇よりも偉い「神」でもある。
 だが、『日本書紀』に出てくる両面宿儺は、大和朝廷に抗う逆賊だ。二つの顔を持つ怪物であるかのように描かれている。仁徳天皇は、和珥(わに)臣(おみ)の祖先である難波根子武振(なにわのねこたけふる)熊(くま)を派遣して宿儺を殺害したという。
 この飛騨の叛乱は、五世紀ごろに実際に起きた事件だとみられている。宿儺伝説は、飛騨という山深い地域に大和朝廷に対抗できるほどの一大勢力があったことを示唆するものだ。おそらくこの事件が、律令国家成立とともに飛騨に課せられた“不当な使役”につながったのではないだろうか。

第一部 謎の技術集団
(五回続きの五)
▼飛騨の匠
大化改新(六四六年)を経て律令制が確立されるようになると、日本全国それぞれの地域が大国、上国、中国、下国に分類された。飛騨国はその中で、最低ランクの下国に位置づけられた。そのほかに「下国」とされたのは、伊賀国、伊豆国、和泉国、佐渡国、対馬国、壱岐国、淡路国、隠岐国、志摩国の九カ所だけだ。飛騨国以外はみな、小国か島国で、当時「中国」と同等の実力があったとみられる飛騨国は、不当に「下国」にされた疑いがある。
それに加えて、すべての国土に平等に適用されるはずの律令も、飛騨国にとって不利であった。唯一、飛騨という特定の国に対してだけ、租庸調(そようちょう)のうち庸調を免ずる代わりに匠丁(しょうてい)(大工)を徴用するという「斐陀(ひだ)国(こく)条(じょう)」が定められたからだ。
なぜ飛騨国だけが、匠丁を都に出さなければならなかったのか。この理由について、朝廷に背いた人物を排出した飛騨国に対する懲罰だったとする見方がある反面、それだけ飛騨の人々の技術力が秀でていたとみることもできる。つまり朝廷が一目を置かねばならないほど、飛騨の技術者集団は優れていたとも考えられるのだ。その技術力はどこから来たのか。彼らは日本海側から太平洋側までの南北を測量できるほどの科学力をもっていたのか。それは次の第二部で検証していくことにしよう。



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