薔薇シリーズ59
▼シェイクスピアから生まれたバラ7(黒い貴婦人3)シェイクスピアの『ソネット』には、美青年をバラにたとえた表現が多く登場します(1,54,109番など)。ところがシェイクスピアは、黒い貴婦人をバラにたとえたりしないんですね。それを如実に示しているのが130番のソネットです。130 My mistress' eyes are nothing like the sun, Coral is far more red, than her lips red, If snow be white, why then her breasts are dun: If hairs be wires, black wires grow on her head: I have seen roses damasked, red and white, But no such roses see I in her cheeks, And in some perfumes is there more delight, Than in the breath that from my mistress reeks. I love to hear her speak, yet well I know, That music hath a far more pleasing sound: I grant I never saw a goddess go, My mistress when she walks treads on the ground. And yet by heaven I think my love as rare, As any she belied with false compare.130私の恋人の眼は少しも太陽に似ておらず、朱色の珊瑚のほうが彼女の唇よりもはるかに赤い。雪が白いと言うならば、彼女の胸は褐色であり、髪が針金と言うならば、彼女の頭に生えているのは鉄(くろがね)の針金だ。赤と白が混ざったダマスクローズを見たことがあるが、彼女の頬に、そのような薔薇を見ることもない。恋人が漏らす吐息よりも芳しい香りのする香水はいくらもある。彼女が話す声を聞くのは好きだ。だが正直言って、音楽のほうがはるかに心地よく響く。天上界の女神が歩くのを見たことがなくても、恋人はちゃんと大地を踏んで歩いている。だが神に誓って言う。偽りの比喩で飾られたどの女性と比べても見劣りすることは決してない、類稀な女性が我が恋人である、と。130番はシェイクスピアのソネットの中で、英語的には簡単な部類に入ります。ここで知っておけばいいのは、当時のソネットなどで使われた詩的な表現をすべて否定しているということですね。「恋人の眼は太陽だ」「唇は珊瑚よりも赤い」「雪よりも白い肌」「薔薇のような頬」「どのような香水よりも甘い吐息」「音楽よりも妙なる響きの声」「天上界を歩く女神のようだ」といった表現はすべて嘘八百であると、シェイクスピアは言っています。4行目のwiresも当時の詩的表現で、髪を金色のwire(針金)やthread(糸)にたとえるのが流行していたんですね。8行目のreekは現代では「悪臭を放つ」という意味ですが、当時はそのような否定的な意味はなかったそうです。最後の行のany sheのsheは黒い貴婦人のことではなく、一般的な女性の意で、any womanと同じです。ここで黒い貴婦人が、眼だけでなく髪も肌も黒(褐色)であることが判明します。そして面白いことに、黒い貴婦人は後世においてバラの名前になりましたが、シェイクスピアにとっては決してバラではないんですね。シェイクスピアの自己矛盾はここにあります。戯曲をはじめ、『ソネット』の美青年には、さんざん「偽りの比喩」を使っておきながら、黒い貴婦人を語るときには、そんなものは嘘っぱちだと言い放っているんですから。 すると美青年への狂おしいほどの恋は嘘だったんでしょうか? どうもこうした表現の使い分けをみると、美青年への恋心は高尚でより理想的(空想的)な愛の響きがあり、黒い貴婦人への恋心は肉欲を伴う、より本音に近い現実的な愛であったのではないかと思われてきます。詩編144番でシェイクスピアはその二つの恋を次のように表現します。Two loves I have, of comfort and despair(私には喜びと絶望の二人の恋人がいる)The better angel is a man right fairThe worser spirit a woman colour’d ill(良いほうの精霊は初心な美男子悪いほうの精霊は黒く不快な女)127番では黒を褒め称えていたシェイクスピアも、144番では黒を貶(けな)しています。何があったかというと、黒い貴婦人は次第にシェイクスピアにつれなくなり、とうとう恋人の美男子を誘惑してどこかへしけこんでしまったんですね。気が気でないのはシェイクスピアです。二重に裏切られ、二重に嫉妬し、二重に嘆きます。その模様は40~42番にも書かれています。その中でシェイクスピアは、恋人の美男子を奪った黒い貴婦人を淫乱女のように罵ると同時に、美男子と自分は一心同体であるから、黒い貴婦人は私を愛しているのだと自分を慰めたりもします。錯綜した三角関係ですね。しかし『ソネット』の物語はまだ続くんですね。第四の人物が登場し、物語をクライマックスへと導きます。(続く)