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言葉を“面白狩る”

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2009/06/19
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カテゴリ:カテゴリ未分類

「略記当郡吏 代官 松尾平馬・植木三蔵、番組 岸勇兵衛・山田孝蔵・三輪伝蔵・山口慶次郎・熊野直次郎、定加 野津粂蔵、吟味方加 石井清三郎、年寄 四日市源内半五郎・竹原治左衛門・三津新六・白市喜三治、割庄屋 志和組年寄同格脇万左衛門・高屋組白市年寄竹原東村喜三治・浦辺組阿賀村彦五郎・黒瀬組津江村雄平・下西条組吉川村亮平・上西条組郷村六郎右衛門・竹原組仁方村助次、山目附 広村喜三次・飯田村伊右衛門、社倉主役 広村割同格源左衛門・吉行村要左衛門、割庄屋同格 広村庄屋千兵衛、割庄屋格 広村三右衛門……」(文政八年(1825)一月、「鶴亭日記」)

これは安芸国賀茂郡の郡吏を列記したものの一部です。これにより役職の序列(格式)を読取ることができます。
 代官:2名
 番組(代官手附):5名
 定加:1名
 吟味方加:1名
ここまでは苗字を持つ侍で、広島から派遣されます。
 年寄・割庄屋・山目附・社倉主役・割庄屋同格・割庄屋格
これらは賀茂郡内の農民(町人)から任命されます。中には苗字を称えることの許された者もいます。

これらの役職の中で、「定加」について頭を捻っていましたが、読みだけは分りました。

「二十九日 ……直次来、世良・三谿御代官所定加り(ジヤウクハハリ)ニ相成候由申来。」(寛政八年(1796)一月、「春水日記」)
二十九日、直次が来て、世良・三谿御代官所の定加りに任命されたと報告する。

ルビの御蔭で、「定加」は「じょう-くわわり」と読むことが知れます。

この記事で「直次」とは、岩戸直次と考えられます。(同日記にその名が見られます)。

「御歩行目附小谷万助様・御番組岩戸直次様・三宅嘉蔵様瀬戸田町御出浮被為遊、早速御しらへ御座候所、……」(寛政十二年(1800)、『瀬戸田町史』)
御歩行目附小谷万助様と御番組岩戸直次様・三宅嘉蔵様が瀬戸田町に出張され、早速御調べになると……。

ここでは、「定加」から「番組」になっています。すると、「定加り」は“番組見習”のようなものかも知れません。

「良順老も先月初メ奥詰ニ被召出、医学所頭取助ケニ被仰付、此節二七五十出勤ニて、朋百氏のレスブック講釈致し被居。ゲネースも大ニ被相行、門人も相応ニ在之、大ニ勢ヒを被得申候。先々可歓次第、乍併拙生の次席ニ被立候事、如何ニも気のどく千万之至なり。」(文久二年(1862)九月、『緒方洪庵のてがみ』)
松本良順老も先月の初めに奥詰に召し出され、医学所頭取「助ケ」に任命されました。当分は「二七五十」の出勤で、「朋百氏」(ポンペ)のレスブック(教科書)を講義しています。治療もされ、門人も相応にあって、勢いを増しており嬉しいことですが、私(緒方洪庵)の次席なので気の毒です。

【医学所】(『岩波日本史辞典』)
江戸幕府の西洋医学の学校。神田お玉ヶ池の種痘所は1860(万延1)幕府に移管され、61(文久1)西洋医学所、63年医学所と改称、医学教育機関の役割も持つようになる。緒方洪庵の後を受けてポンペの門人松本良順が頭取になってから、系統的な教育を行なうようになった。明治に入り医学校として再興、大学東校・東京医学校などを経て東京大学医学部へ続く。


「頭取助ケ」(頭取次席)なる言葉も、「~ケ」と送り仮名があるので「たすけ」と読むと心得ていましたが、これが大間違い。

】すけ。(『広辞苑』)
(2)すけ(次官)。


「助ケ」と書いて「たすけ」ではなく「すけ」と読ませるのでしょう。

「二七五十出勤」とは何でしょうか。同書の解説では「二、七、五、十の日に出勤」との説明がありますが、「二、五、七、十」と並んでないので困っています。






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最終更新日  2009/06/19 11:10:17 PM



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