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「一去ル三日ゟ年号寛政と改元被仰出候由、江戸ゟ申来候、此段可被相触候、以上 二月廿一日 別紙之通被仰出候条、町中末々迠不漏様可相触者也 二月廿一日 新十郎 八郎右衛門 五組大年寄中」 「一去ル三日ゟ年号寛政と改元被仰出候由、江戸ゟ申来候、此段可被相触候、以上 二月廿一日 新十郎 八郎右衛門 五組大年寄中」(寛政元年「御触帳」=「堀川町覚書」) 創元社の『元号読本』によると、天明八年(1788)一月の京都市中の大半を焼き尽くす大火により改元が準備され、年末には改元の準備が本格化し、朝廷は年号案七案を幕府に示した。幕府はその中から「寛政」を選び、翌天明九年(1789)一月二十五日に「寛政」と改元されました。 右の「堀川町覚書」によると、幕府は「去ル(二月)三日」に改元を表明し、広島藩には「二月廿一日」までに知せが届き、この日に市中に触れ出しています。 この「堀川町覚書」の表紙は 「 戊(ママ) 寛政元年 御触帳 酉 正月 」 と書かれています。江戸から改元の知せがあり、急遽、表紙を「寛政」と取り替えたのかも知れません。蛇足。寛政元年の干支は「己酉」でした。
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最終更新日
2021/09/01 04:39:06 PM
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