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皆様、御無沙汰しております。
新学期からの大教室での授業に向けて、最近はボクも勉強をしなおさなければならず、とても忙しい日々を送っています。ディベート型、対話型の研究会授業は、ゼミ生時代から、弁が立ち、リーダーシップをとってきたのですが、一方的に喋る演説型の弁論は、整理して喋ろうと思うと、あれもこれもという感じで付け足しになって、どうもまとまりの無い話になってしまうのが、ボクの悪い癖。決して、アガリ性ではないのですが、レジュメに要点を纏めて行っても、いざ本番では、「えーっと、蛇足ですが…」とか、「ちなみに○○のようなケースでは…」とか、あさっての方向へどんどん脱線して行ってしまう(笑)だから、講義ノートは、一言一句全部、語り口調で書かなければならない始末(爆) さて、政治を専門に入学してくる人達に、どうやったら刑法を親しんでもらえるだろう…と、色々考えているのですが、刑法という分野は、権威主義の蔓延る法学の中にあっても、特別、学閥対立が激しくて、どの立場をとるかによって、論理構成が全然、違ってしまいます。ボクが新入生の頃は、神大の福田平先生の教科書をベースに習ったように記憶しているのですが、色々な教科書を読んでみて、ボクの講義では、ちょっと通説からは外れているものの、かなり読み易く丁寧に書いておられる、明大の川端博先生の教科書を基本書にする事にしました。 まあ、刑法総論というと、まずは、新派と旧派に始まり、行為無価値、結果無価値の二つの立場を解説して…というのが、普通の講義なのでしょうけれども、ボクは、憲法や刑法等の公法という物は、常に政治的視点を欠いてはならないと思っていますので、思考実験的な授業は、最低限に絞り、毎回、昭和の事件史を十分程度解説する事にしました。これは、論理の立て方、思想的バックグラウンド、刑事政策等を広汎に取り入れていこうという試みです。現実に社会的トピックとなるのは、行為無価値か結果無価値か、対物防衛は、緊急避難か正当防衛か、原因において自由意志ある行為は、有責性を認めうるか、等という講学的議論ではなくて、裁判員制度であるとか、被害者参加制度、あるいは、教育刑論の見直し等の、政策的判断が重要な分野が多いと思います。そういう時に、思想的バックグラウンドが無いと、法の機能主義的な面にのみ目がいってしまい、後の憂いを招く立法作業をしてしまう事になると思います。少なくとも、物事の機能と原則論にしか目がいかない人は、「警官は何人死んでも、凶悪犯にも丸腰で向かうべきだ」という論理と、「自衛官に死傷者が出るかもしれないから、イラク派遣はんたーい」という論理が、同じ口から平気で出てきてしまうような事にもなるでしょうね(笑) そんなかんじで、最初に何回かに分けて話そうと思っているのが、「永山事件」について。永山死刑囚について、著作を読み直しているのですが、率直に言って彼は典型的な文系バカだと思います。文系(特に社会科学系)で成績のいい人間に非常に多い傾向ですが、彼の著作を読んでいると、論法が無意識に演繹的になっています。演繹法は、帰納法よりも「悪魔の証明」の事もあり、ぱっと見は、非常に論理的に見えるのですが、致命的な事に、原始命題が正であるという証明がなされていない事が、非常に多い。これでは、ドグマと言われても仕方がありません。原始命題が、正である、もしくは、正と解する方が相当である、という証明があってはじめて、論理が成り立つのですから、それが決定的に欠落している、永山の文章は、ルソーの「社会契約論」などと同じで、独善の域を出ない駄文であると言えます。 永山の著作全てを貫く思想は、かいつまんで言えば、 ・人間の全同時代、且つ全個人史的な表象の中の一部分にすぎない「犯罪」を個人の「全人格」であるかの如く扱うのが、市民社会の歪みがある。(死刑は、その最たるもの) ・故に、犯罪の「原因-動機-結果」を「犯罪」者個人の性格の中に求めるのではなく、現在の市民と犯罪者の間の「関係-責任-義務」を明らかにする必要がある。 ・そういった要請を阻害するのは、市民によるルンペン・プロレタリアート(永山自身の言葉による)に対する差別と偏見であり、これを糾す事をこそ、直近の課題とせねばならない。 正常な感覚の持ち主からすれば、物凄く違和感のある弁証法論理です。「つっこみどころ」は、沢山あって、寺山修司が「永山則夫の犯罪」で非常に良い批判を載せていて、参考になるのですが、ボクから言わせれば、寺山のように丁寧な批判をしなくても、この弁証法は、原始命題が誤っているのですから、論理として成立しないのです。犯罪を犯した社会的な一存在である「私」は、社会における客体として存在するのであるから、「私」に存在する主体的存在である「私自身」を、社会がどのように見たとしても、見えるのは、ただ単に社会的な一客体である「私」に過ぎません。「私」に対する諸個人の見解が異なるのは、単なる視点の相違であって、社会が「私」の全人格を理解する事は、「社会」の意思が私の「意思」と同化しない限り、成立しない論である。故に、「犯罪は、罰せられねばならない」という命題が正である限り、その罪科を行為者に帰属させねばならぬのは、自明。よって、第一の命題が、そもそもの誤りなのです。 なんか…大学入りたての頃、こんな一円の足しにもならんような議論を友人とやってたなぁ…とか、思いながら、レジュメを作りました。でも。こういう自分でも意味不明になってくるような事を言って、革命だ何だと言っていられるのは、若い内だけなんですよね。社会に出ると、基本、公の場では、政治や思想の話はNGですから、若い人は、わけが分からなくても哲学書を通読して、議論に参加する気概が欲しい所です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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