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ゴリエダンサーズに入れてもらえそうで、ホッ。
息子に、ゴリエの入手を依頼。 今、藤原さんの『公教育の未来』(ベネッセ)を読んで いますが、本当におもしろい。 学校とは「人生を生きる技術」を教える場であり、 教師は「人生を生きる技術」を教える人 という彼の定義について、 「どこに出しても不足はない、これのみでもう自己完結 的な論考」 と塩野七生さんが評する。 「学校っていったいなんだろう?」 なんて、わたしのぬるい疑問符の表現を、自己反省した。 甘い、まだまだ甘い。 もっと突き詰め、自らの「納得解」を持ち、行動しないと 先には進めない。 そんな藤原さんと参加した、先の中教審会議「ニートにつ いて」を振り返ってみた。 「聞き方」には2種類あるなあ・・・・と思った。 「チャンスがあれば、自分のこれまで持っていた価値観、 思考パターン、行動パターンを変えたい」という聞き方と、 「自分の価値観、思考パターン、行動パターンは絶対変え ずに、すべて自分に引き寄せ、自分の価値観などを確認・ 補完する」ために聞くという聞き方だ。 ぶっちゃけ、エライ人も結構入っていた会議だったけど、 エライ人ほど、後者だったような気がする。 話題提供者の報告を前段の引き合いには出すものの、 後は自分の(いつもの)お説だったりで。 自分を絶対変えない聞き方。 「今の子育てはこうこうこうなんですよ」とお話しても、 「そうそう、十○年前のわたしが子育てしていたときも そうだったのぉ」 って言われたりして、 「あーもーこの人、変わる気ゼロねー」 ってわかると、ばかばかしいので話をしたくなくなってしまう。 (いま、すっごい転換期なんだって。わかっている人は わかっているけど、認めなくない人は、ずっとそうだよね) そして、そこで「わかって」も、変わんなきゃ意味ない じゃんってことなんだと思う。 いつもいつも「わかって」、「変わる」必要はないけど、 「今がそのチャンスだ!!」 ってことが、100%了解できて、何を変えるのかが「わかって」 恐れずに「自分を変える」のって、「人生を生きる技術」のか なり上位ランクの技術のように思う。 ・・・・・・・・・・ そうやって、コンセプトがはっきりしたら、次はプレゼンの 技術ということになる。 ゴリエに関しては、準備が必要だなー(踊りの練習もそうなん だけど、場の設定とか、周囲の人たちの理解とか)。 バン!と出して、オッ!ってときもありますが、 バン!と出したら、古くからやっている人が、みんな引いちゃ って・・・とか、反発くらっちゃってということもあります (「わかる」「変わる」は、やすやすとやってのける人と、 なっかなかできなくて努力しても袋小路に入り込んでいる人、 まったくダメな人がいるように思います。見ていると、年齢に よるところも大きい感じ)。 それは、非常にモッタイナイので、こちらにも、アタマをひね りましょう。これぞまさしく「技術」です。 ・・・・・・・・・・・ 先般、シニアの人に、はっきり「シニアの子育て支援を考え てほしいんです」と申し上げた。 その人は「わかって」いて、実際現場を持って「やっている」 人なので、たぶん、わたしの気持ちと意図はくみとってくれ たと思う。 でも、多くのシニアは、自分がシニアであることすら認めたが らない。特にわたしのような若造に言われると、カチンとくる ようだ。 「わたしだってまだまだ若いのよ」 「若い人には負けられないわ」 っていうときの「若さ」ってなんだろう? 若い人とはりあって、同じコトをシニアがやっても、それは、 「シニアであることの証明」にしかならず、むしろ、シニアの 役割をきちんと承知し、それをやってのけてこそ、「若い」と いえるのではないだろうか? そんな手厳しいことを言っていると、 「じゃあ、お前はどうなんだ?」 と返す刀で聞かれてしまう。 シニアと若い親世代の中間地点に立つ、40歳。 しかも子どもは高校生。 「中途半端」なポジション。 ゴリエ・・・ むむ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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