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カテゴリ:杉山千佳(子育て環境研究所)
この前、あるまちの子育て支援のシンポジウムで
コーディネートを依頼されたとき、そのまちの 子育て支援者たちが実施したアンケート調査について のコメントを頼まれた。 その質問は、集計結果をどのように使う予定なのかの 説明も十分ではなく、質問自体総じてネガティブで、 「子育てがつらいと思ったことがありますか」 とか、 「そんなとき誰に相談しますか」といった内容が 多かったのだけど、そこに 「ぶったりたたいたりしたくなることがありますか」 という質問もあった。 回答してくれた人のなかには、 下の子がうまれて、上の子が疎ましくついたたいてしまう とか、ぶったあとはものすごく反省するが、また手が出て しまう、どうしたらいいのでしょう? といった内容もあったと報告してくれた。 どうしてこんなことを聞くのか、目的がさっぱりわから なかった。 むしろ、そんな質問をぶつける無神経さ(それに気づかない 鈍感さ)にちょっと後ずさりする気分だった。 「わたしだったらこんな質問はしない」 と、その場で言わせていただいた。 それは、パンドラの箱を開けるようなものだから。 聞くからには、それなりの責任がともなうと思う。 それにも気づかず、訳知り顔のききたがりやには、 わたしだったら、絶対に口を割らない。 だから、お母さんたちも、そんな人に調子を合わさず ともよいと思う。 「あなたには、答えたくない」 という回答もあっていいと思う。 人の尊厳とは、そういうことではないだろうか。 「受容と共感」って、カウンセリング業界では、 ものすごく当たり前に出てくる用語だけど、 書いてあったらできるとか、講義を受けたらできるとか、 そんなに簡単なことではない、とわたしは思っている。 オシゴトの「受容と共感」は、 ノーサンキューだ。 ケーススタディされたり、分析されたりは まっぴら御免だ。 深い深いところでの受容、共感。 いるだけで、受容されていると感じ、 ことばなくとも、心は共鳴している。 なんと、心地いい瞬間。 でも、それは、たやすいことではない。 それは、心からの信頼で成り立つものだからだ。 だから、わたしは誰にでもしてほしいとは思っていないし、 誰にでもしてあげられるとも思っていない。 「わかる、わかる、そうよね。そうそう。わたしも そうだもん。そんなふうに感じてるの、わたしだけ じゃなかったんだぁ」 と、気軽にうなずいて、わかったふりをすることのほうが、 よほど相手に対しての礼を欠いているように思う。 そんな「受容と共感」は、なんか、もういいや・・・ という感じなのだ。 孤独も、闇も、わたしは、逃げないで 引き受けようと思っている。 そこから、つかみたい。 ほんものの、受容と共感。 ただひたすら、「信頼と共感」というクレジット レベルを高めたいと思って生きる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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