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カテゴリ:杉山千佳(子育て環境研究所)
杉山です。
以前、占い師のまついさんに鑑定をしてもらったときに、 「杉山さんは完ぺき主義の脳内女王様」と言われました。 息子にそれを言ったら、 「それって、占いじゃなくて、チカチューを見ての心理 判定かなんかじゃないの?} と言われました。 そうなんだよねー。 わたしってば、かなり、マジメなのだ。特に仕事に関しては。 ギリギリ根つめるタイプ。 わたしができるんだから、みんなできるでしょ?ぐらいの 感じなので、できない人がわからない(←女王様気質?)。 要は手が抜けないのだ。 (これはこれで、結構つらい) ・・・・・・・・・・・・ ここのところ、玄侑宗久さんの『禅的生活』(ちくま新書)を 読んでいるのだけど、そこに、「あっ」と思うことが書いてあった。 表現しすぎた志の怖さ 「(ゆきすぎた)表現は、しずかに確実に表現者本人を 縛っていくのではないだろうか。」 という事例として、金子みすずさんを引き合いに出す。 「鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい」 までは佳かったけれど、 「私は好きになりたいな、なんでもかんでもみいんな」 とまで言われたら、「それは無理です」と言ってあげたい。 「私がさびしいときに、仏さまはさびしいの」と言われたら、 「それは違います」と申し上げたい。 そうした無理な表現に自分の全体を合わせ、方便であることを 忘れていくから、彼女も自死するしかなくなってしまった のではないだろうか。 宮澤賢治の場合は自死ではないけれど、しかしなんとなく、 やはり「志」がキツすぎた気がして仕方がない。 (中略) だから行きすぎた表現を「志」にするのは、危険だと 申し上げたいのである。 お見事、玄侑さん。 バランスなんだよね、結局のところ。 つくづく、脳内女王様のわたしとしては、肝に銘じたい ところなのだけど、では、どうすればいいか? というと、 そこで玄侑さんは 「風吹けど動ぜず天辺の月、雪圧せどもくだけ難しかんていの松」 という禅の言葉を披露する。 八風という揺らぎやすいアプローチにも動ぜず、外的な 困難としての雪にも屈せずに、自分の仕事に主人公として 自信をもってあたる。 しかも地域に根をおろしてそこから深く滋養をいただき ながら松のように淡々と生きる。 それが禅的な志だと思っていただきたい。 というわけだ。 これもこれで、結構大変だと思うのだけど、 なんか、いいな。 禅のことはそんなによく知っているわけではないのだ けれど、四季折々の言葉を取り入れながら、本質を ずばっと言ってのける言葉が多くて、ついつい味わって しまう。 そうしていると、けっこう、ゆるゆるっとなって 「行きすぎた表現」にブレーキがかかってくる。 深呼吸は大事。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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