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カテゴリ:杉山千佳(子育て環境研究所)
杉山です。
人にはいろいろな好みの傾向があるかと思うの だけど、わたしは、論理と実践が伴っている人の 仕事というか、活動が好きだ。 論理だけ、実践だけっていうのは、どうも、魅力を 感じない。 そんなわけで、このブログでも何度も紹介 している河合隼雄さんは、抜きんでてスゴイ人だ、 と思っている。 臨床心理士として数多くのクライアントと対峙し、 目に見えないこころの深層にともに踏み入れていった と同時に、文化庁長官、だから。 一介のカウンセラーや学者は、 文化庁長官にはならない。 親しい人たちは、文化庁長官になったから命を縮めた のだと嘆いてらっしゃるようだけど、たぶん、それは 間違いないと思うけれど、 河合さんは、文化庁長官をやるとはどういうことか、 承知の上で、その役を引き受けられたように思う。 ・・・・・・・・・ わたしは講演などで、ミクロ・メゾ・マクロの円の 図を描き、 「ミクロを相手に仕事をしているのか、 メゾの位置で動いているのか、 自分がいまどこに向かって、何をしているのかを 自覚しながらことに当たると、無駄が少なくなる」 「リーダークラスの人は、ミクロ・メゾ・マクロを 自由に行ったり来たりできるようになってほしい」 といったことをお願いしているのだけど、 それは、自分自身も「できるようになりたいこと」 なんだと、言いながらいつも思ってきた。 最近わかったことがある。 以前は、ミクロが得意な人はミクロ、マクロが得意な 人はマクロ・・・というように役割分担してやったら いい、 で、分断せずに、連携したらいいと思っていた。 でも、たぶん、違うんだ。 表層的な部分では、たぶん、役割分担と連携はある程度 は可能だろうけど、それじゃあだめなのだ。 もっと言ってしまえば、「コーディネーター」をたてた ところで、だめなのだ。 ミクロ(自分の核)を深く掘り下げれば掘り下げた分 だけ、その距離分だけ広く、どこまでも行くことがで きるのだ。 もちろん、いつもいつもそんなことをやっていると 身が持たないだろうから、「ここぞ」の時に、 その力が発揮されるのだろうと思うけれど。 そんなことを、河合さんの残された仕事の断片を 残された書物を通してつなぎ合わせながら、思っている。 それは、 「なんか、生きてたらできるようになりましたー」 みたいなのんきなお話ではなくて、 できるようになりたいという強い意志と、 それなりの能力があって、できることに違いないと、思う。 ミクロを掘り下げていくのは、それだけで 危険なことだ。 その「深さ」を今度は一転「広さ」にしていく時、 また別の手法を必要とする。 手ぶらでうろうろするわけにはいかない。 だから、理論。技術。研ぎ澄まされた感性。 その、手際の鮮やかさに、いやはやまったく・・・。 間近で見た人は、きっと驚愕したことであろう。 わたしのような凡人は、うっかり煙に巻かれそうに なるんだけど、親しく交流のあった中沢新一さんが 「河合さんはつまりこういうことをこんなやり方で されていたわけです」 と、すごくわかりやすい文章で書いてくれて、 「あ!そうかー。そうだったのか、すげー」 みたいにわかったりして、 で、佐野洋子さんの河合隼雄さんの追悼文の 題が「大いなる母」で あったことを今日発見して、 「なあんだ、みんな、わかってたんだー」 と、いやはやな気分。 「ものの見方を変える」というのが、 このところのマイテーマなのだけど、 これは、とっても、おもしろい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
February 2, 2009 08:48:19 AM
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