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Apr 3, 2009
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エイプリル・フールにちなんで、というわけではありませんが、
たまたま「嘘」について考える機会があったので
日記にしようとおもいます。

今日、4歳になる上の娘が嘘をつきました。

娘は、朝食の食べ残しのパン半切れをゴミ箱に捨て、「朝ごはん全部食べた?」と聞いた妻に「全部食べたよ」と答え、妻は娘を褒めた。

ほどなくして、妻は娘が捨てたパン半切れをゴミ箱で見つけた。

上の娘は、全部食べたことを褒められたいがために虚偽の報告をしたとおもわれます。


「あなたは嘘をついたことがあるか?」

という質問は、「はい」と答えれば、その人は自分が嘘つきであることを自認していることになり、「いいえ」と答えても、それはその人が嘘つきである証だ。


娘に問いただした。

「朝ごはん、どうしたの?」

「ゴミ箱に捨てちゃった。」

「それで、ママに何て言ったの?」

「『全部食べた』って言った。」

そんな問答を数回繰り返すと、娘は

「アタマが痛い」

と言いだした。

「何でアタマが痛くなるのか、パパは知ってるよ。」

というと、

「パパ、何で知ってるの?」

と尋ね返されて、閉口したが。。。

「パパも嘘をつくと、頭が痛くなるからだよ。」

と正直に答えた。当然、娘は

「パパも嘘つくの?」

と尋ねてくる。

「パパも嘘をつくことがあるよ。」

今度は妻に対して、

「ママは?」

と尋ねる。

妻の回答は

「ママは嘘ついたこと無いよ。」


どちらにしても、空しい答えです。

 

人間、

そこに「ある」ものを「ない」と言ってみたり、「ない」ものを「ある」と言ってみたりすることがあることは誰にでもあることで、こうした虚偽の表示は太古の昔から確認されていますが、そうした人間の精神活動が問題視される場合、その根底には、結果主義の倒錯があるのではないでしょうか。

よく子供同士で遊ぶ場合、「○○ごっこ」が行われるが、これは子供の想像力の発達上、非常に重要な精神的活動であると同時に、これもまた、嘘をつくのと同様、虚偽の表示であることに変わりはありません。

砂場で遊んでいる娘が、プリンの空き容器に砂を詰めて、「コーヒーです。飲んで下さい」と言って差し出す。大人から見れば到底結びつくことのない物と概念を、いとも自然に結びつけてしまう子供の想像力には驚愕させられる。そして驚愕が感心・理解へと姿を変えて、

「ゴク、ゴク、ゴク。。。あーおいしかった。。。」

などと答えてしまうが、これはとりもなおさず、砂がコーヒーであるという虚偽の表示を行うことを認めているってことですよねえ。

そんなわけで、自分で食べていない朝食をごみ箱に捨てて「食べた」ことにしてしまう虚偽と、プリンの空き容器に入れられている砂を「コーヒー」であるとしてしまう虚偽のどこが違うのか、という、難しい判断基準を迫られてしまう。

そして気付くことは、虚偽の表示をしたこと自体で、子供を叱ることは出来ないのではないか、ということです。

なぜなら、

自明かもしれませんが、そうした事実に反する概念、実際に存在しない概念を組み立てる想像力なくしては、生理的に空を飛べない人間が飛行機を発明して空を飛んだり、数十年前には「絵空事」だったインターネットが、今日においてこれだけ普及することはなかったでしょう。

もっといえば、芸術なんか「フィクション(さすがにfabricationなどとは言わないが。。。)」なんて言って、初めから「虚構」であることを前提としている。いちギタリストとして言わせてもらえば、「お前の演奏は嘘っぽい」などという評論は無意味ですね。なぜなら、音楽なんて、そもそもが抽象芸術だし、そこには「音」が流れている時間しか存在しないからです。

まあ、こうして想像で話をする場合、通常は「案」「計画」「構想」など、あくまでも実在しない、想像上の物であると、断りが入っていますが。。。そうやって断った上で想像上で議論する分には何にも問題ないし、極言すると、断らずに虚偽の表示をしても、その結果について責任が問われるだけです。

それはともかく、

「ごみ箱に捨てられた朝食」の事例と、「砂のコーヒー」の事例の違いは

大人が騙されたか如何

というだけのことです。

つまり、ごみ箱に捨てられた朝食は、私も妻も気が付かなかった。砂のコーヒーは、一見してすぐに本物のコーヒーではないことが分かる。ごみ箱に捨てられた朝食は、私も妻も、娘にまんまと騙されたがために「悪い」ということになってしまったが、どちらも虚偽の表示であることに変わりはありません。

逆に、「コーヒーです」と言って渡された砂が、プリンの空き容器ではなく、缶コーヒーの空き容器に入っていて、まんまと騙されたとしたら、私はやみくもに娘を叱っていたと思う。

上の娘は食が細く、下の娘はモリモリ食べる。自然と下の娘を褒めるようになってしまう。それを毎回食事の度に目の当たりにしている上の娘が、「全部食べた」という結果のみを追求した結果、思いついたのが、おそらくは親の目を盗んで、食べ残しをゴミ箱に捨てることだったのでしょう。

今日に至るまで、皿に盛られた食事を全て平らげるまで、食卓で小一時間にわたり、「食べなさい」と言い続けて来ましたが、今日の一件で反省させられました。

とにかく「皿が空になること」という結果主義は、そのまま「結果主義」として娘に伝わってしまったんですね。「とにかく、皿が空になれば良い」と。

これからは、なぜ食事をちゃんと摂らなければならないかをしっかりと説明し、全部食べられなくても、食べようとする努力を認めてやろうと思います。

実社会を見ても、

粉飾決算など、こうした「結果主義」のために起こったスキャンダルは、枚挙に暇がありません。きょうびの競争社会、合理化社会、スピード社会では、結果が絶対的な評価基準とされることが殆どですし、そうした競争社会のせち辛い部分を、幼少時からイヤと言うほど思い知らされて生活している私達は、ともすればそうした「結果偏重主義」のために盲目になってしまう部分も沢山あると思います。

長年にわたって開発が進められているリニアモーターカー。小学生時分から、新幹線の250キロだって物凄く速いと思っていたのに、それをはるかに凌駕する400キロ以上で運行することができるなんて、まさに「夢のようなはなし」で、ワクワク・ドキドキしてました。

あれから二十有余年が過ぎ、アメリカから帰国すると、都営大江戸線なる地下鉄が走っている。。。しかも、なんとこれが「リニアモーターカー」だという。

んが、

あれだけワクワクさせられておいて、実際に出来上がってみたら都営大江戸線だったら、ちょっとがっかりです。。。

しかし、

現状の開発段階としてそれが精いっぱいだったとしたら、現段階で、まだ日本国内を400キロ以上で走るリニアモーターカーが実現していない事実を認めることも重要である一方、少なくとも実際にリニアモーターカーがみんなの足として活躍している事実を認めることの方がずっと大事なんじゃないかな。。。

娘には、この「結果偏重主義」の世の中で、達成し得なかった結果を認める勇気と、努力の過程を楽しみ、また大切にする心を、しっかりと身につけさせたい。。。

 

 

 

 

 






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Last updated  Apr 4, 2009 03:32:40 AM
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