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Natural environment and life in Shizuoka

Natural environment and life in Shizuoka

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2006.10.03
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カテゴリ:自然環境と生活
        
        一
一昨年(平成一四年)七月ころ、「咸臨丸子孫の会」会長で横浜に住む佐々木さん(咸臨丸乗組教授方浜口興右衛門・浦賀奉行所与力の曾孫)からEメールが届いた。会の函館旅行にさきだって、静岡市に住む中島三郎助の孫の清さんを訪ねたいというのである。
数年前、開国に関する横須賀物語という風なテレビ番組を見た。そこに浦賀奉行所与力中島三郎助が登場し、函館戦争で中島親子三人が壮絶な戦死を遂げたこと、函館にそれを記念して中島町という町があることを伝えていた。番組の最後のところで、孫の清さんが登場し、「静岡の自宅から」と挿入文のある場面で、先祖・三郎助のことを語っていた。
それまで、私は、五十年余も静岡に住んでいながら、中島三郎助のお孫さんが、同じ町におられるのを知らずにいた。
私の曽祖父桐太郎も浦賀奉行所与力で、三郎助は九歳年上の先輩だった。父は、桐太郎のことを調べて、三郎助にも触れている冊子を出していた。しかし、私に清さんのことを話したことはなかったから、父も清さんの所在を知らなかったようだ。
放送の直後、訪ねようと思ったが、躊躇しているうちに、そのままになっていた。
私は、佐々木さんに背中を押されて、清さんへ手紙を書いた。二三日して、奥様から電話で返事をいただいた。
        二
九月二十八日、駿府城内堀の北にある静岡英和女学院の校舎に沿って歩きながら、私たちは、右端に教会の尖塔を見上げて、そこを左に折れた。鬱蒼とした木立に囲まれた広大な敷地の奥に、淡い空色の木造洋館が見えた。中島家だった。二階にはりだした弓形のバルコニーからは、明治・大正の開明期の気風が漂よっていた。
玄関で清さん、愛子夫人のお二人に迎えられて、私たちは大きなテーブルの正面の椅子に着いた。清さんは、机の袖の藤椅子に腰掛け、少し気だるそうに背をもたれた。
挨拶がすむと、夫人から、
「お二方様には、長いあいだ丹念にお調べになった年表などの資料を拝見させていただき、主人は万感胸に迫るものがあったと存じます」
と、口添えがあった。
清さんは、
「私は糖尿病を患っておりまして、三郎助も糖尿病の体質だったようで、そのために咸臨丸航米の際に乗れなかったのでは」と、言う。
勝海舟と反りが合わなかったことばかりが、乗船できなかった理由ではないというのである。清さんは、東大医学部を出て、最近まで産婦人科医を開業していた。
佐々木さんからは、事前に資料を送ってあって、三郎助親子戦死後、残された妻子のその後の命運には空白が多く、これを少しでも埋めたいというのが訪問の目的であった。
        三
慶応四年八月十九日、中島三郎助は、徳川慶喜が恭順の意を表して江戸城を出て上野寛永寺に閉居のあと、榎本艦隊に従って品川を脱走して函館へ向った。彼は恒太郎(二十一歳)、英次郎(十八歳)の息子二人を同行させた。
一方幼い娘三人と乳呑み児与曾八(慶応四年二月十九日出生)を抱えた妻すずは、盟友佐々倉桐太郎に託された。肺病を患っていた桐太郎は、倅の松太郎を三郎助に従わせた。
母子を預かった桐太郎は、彼らを駿府(静岡市)へ移住させるべく清水港へ送り、清水次郎長に託したようだ。
このことについて、清さんは「次郎長が与曾八を背負って、駿府西草深町の落着き先まで約二里の道を歩いてやってきたと伝えられている」と言う。
この辺のことについて、『中島三郎助文書附冊』によると、「幕臣駿府移住に付、母子浦賀を引払い、駿府西草深町に住み、暫くして清水次郎長の世話を受け、清水にて光田屋の屋号にて居酒屋を営む。・・」とある。
一方、三郎助親子三人は、明治二年五月十六日、函館五稜郭の前線千代ヶ岱砲台で、官軍の総攻撃により全滅した。
後刻、佐々木さんからの情報で、私は、三郎助の妻すずが身を寄せていたという静岡市清水町(旧清水市清水町)の次郎長通りに面した日蓮宗妙慶寺を訪ねて、次のような戒名の写しを確認した。

明治二己巳年五月十六日
忠誠院木けい日義居士 四十九歳
忠親院思量日順居士 二十二歳
志忠院行道日禮居士 十九歳

中島三郎助は、名は永胤、俳号を木けいといった。
檀家でなくとも戒名を授かることができるかとの問に、妙慶寺から推測としながら、「中島すず母子は、妙慶寺に身を寄せていたから、その縁により檀家でなくても、またお墓がなくても葬儀を行い戒名を授けられたのではないでしょうか。」という返事であった。
墓は、横須賀市東浦賀町東林寺の「中島家累代乃墓」の脇にあるが、空墓である。
明治三年、「脱走先ニ而當主死亡乃者」にも家名相続を認める達しが出たようで、桐太郎は六月に中島家の「家名相続願書」を歎願した。十一月八日、願いが認められて、数え年三歳の与曾八は、「世扶持六人扶持、三等勤番組」を命じられた。
すず母子は、このあと東京巣鴨の香山栄左衛門(元浦賀奉行所与力)宅に移住した。
この後のことであろうか、「浜口興右衛門(浦賀奉行所与力)の妻ナヲおばあさんは『夫の親友中島三郎助の遺児・与曾八に学資をあげて、ついに海軍中将、工学博士にまでなられた・・。いつも横須賀の屋敷に来られては、母に対するごとく礼を尽くし、お小遣いをくださって感謝の意を表していた』と言っていた」と、佐々木さんの母(ナヲの孫)は聞いている。
このあたりについて、清さんにうかがうと、「父・与曾八は、幕臣でありながら脱走兵の子孫だからとはばかってか、あまり自身のことは語らなかった」という。清さんもまた、「父たちは多くの方に助けられた・・」と、ことば少ない。
         四
三郎助の盟友たちは、さまざまに手を貸して遺児たちを見守った。皆が三郎助を心から尊敬していたためであるに違いない。
与曾八は、昭和四年六十一歳で亡くなった。その妻芳子との間には精一、幸二、駿三、清、謙吾、義生の男子ばかり六人の子がいたが、健在なのは、清さんだけである。末の義生さんは、母芳子が、その晩年に三郎助の文書をコツコツ解読していたとのことで、そのあとを引継いで『中島三郎助文書』を平成八年に編集・出版し、その翌年亡くなった。
最後に、二階の清さんの書斎にお邪魔する。正面に著名な洋画家で作品に『鮭』などがある高橋由一の油彩画『三郎助肖像』が掛けてあった。遺影である。私は、拝礼してこれを写真に撮った。
帰りの玄関先でも、ご夫婦で送ってくださった。清さんはお疲れの様子だった。
このあと、私の家では、仏壇に三郎助と桐太郎の写真を並べて合掌している。二人は慶応四年八月(九月八日明治と改元)、東京で別れて以来の再会である。
(付記:この年の暮れに清さんの訃報を聞いた。享年八十四歳だった。)

注 中島三郎助:浦賀奉行所与力。嘉永六年ペリー艦隊の浦賀来航時に副奉行を名乗り談判した。 安政二年長崎海軍伝習生となり、そのあと軍艦操練所教授を経て、桂小五郎(木戸孝允)らに西洋 兵術を教授した。戊辰戦争で榎本艦隊に加わる。 

写真は函館市中島町にある三郎助父子の記念碑(中島町も中島を記念してつけられた町名)





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Last updated  2006.10.03 22:03:58
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