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カテゴリ:歴史
弘治2年(1556年)4月、義父・斎藤道三が子の斎藤義龍との戦いに敗れて死去する。信長も道三へ援軍を出したが、間に合わなかったと言われている。 こうした中、信長の当主としての器量を疑問視した織田家重臣の林秀貞、林美作守、柴田勝家らは、信長を廃し、聡明で知られた信長の同母弟・信勝を擁立しようとした。これに対し信長には森加成、佐久間盛重、佐久間信盛らが味方し、対立する。 道三の死去を好機と見た信勝派は、同年8月24日、挙兵して信長と戦うが、敗北する。その後、信長は末盛城に籠った信勝を包囲するが、生母・土田御前の仲介にとり信勝・勝家らを赦免した。弘治3年(1557年)信勝は再び謀反を企てる。しかし稲生の戦いから信長に通じていた柴田勝家の密告により、これを知った信長は、病気(仮病)と称して、信勝を清洲城に誘い出し、殺害した。 さらに、信長は同族の犬山城主織田信清と協力し、旧主・清洲織田家の宿敵で織田一門の宗家であった上四郡の守護代織田信賢を破り、追放した。新たに守護として擁立した斯波義銀が、斯波一族の石橋氏と、同じ足利一門にあたる吉良氏と通じて信長の追討を画策していることが発覚すると、信長は義銀を追放した。 こうして信長は、永禄2年(1559年)までには尾張国内の支配権を確立した。 尾張統一を果たした翌年・永禄3年(1560年)5月、駿河の戦国大名・今川義元が尾張へ侵攻した。駿河の他、遠江、三河を支配する義元の軍勢は2万とも4万とも号する大軍であった。織田軍はこれに対して防戦したが、総兵力は5,000人。今川軍は三河の松平元康率いる三河兵を先鋒にして、織田方の城砦を次々と陥落させていった。 織田家の危機に際し信長は静寂をを保ち、深夜、幸若舞「敦盛」を舞った後、装具を身に付け出陣し、まず熱田神宮に参拝。その後、善照寺砦で約4,000人の軍勢を整えて出撃、今川軍の陣中に強襲をかけ、義元を討ち取った。永禄3年(1560年)5月19日に行われたこの合戦を桶狭間の戦いという。総大将の討死を知った今川軍は、本国駿河に潰走していった。 桶狭間の戦いの後、今川氏はその勢力が衰退する。このため、今川氏の支配から三河国の徳川家康が独立して戦国大名となる。当時、信長は美濃攻略のために斎藤氏と交戦しており、家康も甲斐の武田信玄や駿河の今川氏真らに警戒する必要があったため、利害関係が一致していた。そのため両者は永禄5年(1562年)、清洲同盟(織徳同盟)を結んで背後を固めた。
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