「ノルウェイの森」村上春樹
来月に待望の映画化が成されるので、23年ぶりに「ノルウェイの森」を読んでみた。書店に行くたびに、なんとなく再読したくない気持ちが意識の深いところから起こり「ノルウェイの森」を避けてきた。正確には村上春樹自体を避けてきた。『1Q84』が昨年ビック・ヒットしたが読んでいない。青年の頃に感動出来たものには羞恥心を感じるし、再読してどう感じるのかということには恐れも感じるのだろう。「ダンス・ダンス・ダンス」なんかは増しだった。当時に読み取った作者のメッセージをいまだに思い浮かべる。「何故、人は生きるのか?」という主人公の疑問に、羊男が答える。「何故という理由なんか考えてはいけない。 人生はダンスみたいなもの。なんで踊っているのだろうなどと考えたらダンスを続けられない。それと同じで理由なんか考えずに生き続けるだけだ。常に全力で、いつも無心で。」そんなメッセージだったと思う。いつの時代にも必要な観念だと思うのだ。その点、「ノルウェイの森」は悲恋の物語と把握していたから重いのだ。恋いが叶わないだけでなく、その女の子(直子)が自殺しちゃうのだから、なおさら重い。まだ「セカチュウ」の方が病死なので気が楽だ。今回読み返してみて、自分の意識の深いところがどう感じていたのかよく分かった。直子だけでなく、主人公の”僕”が関わる主要登場人物の過半数が自殺している。高校生時代の唯一の友人がまず死に、前後して直子の姉、寮で同室の”突撃隊”も もしかしたら自殺かもしれないし、ハツミさんも数年後に自殺。今の時代には重すぎるのだ。1987年の出版時に巻かれた帯に「100パーセントの恋愛小説」とあったが、ラブストーリーとして読むとキツイのだ。事実、今の若い人の読書感想は評判が悪い。重いだの、湿っぽいだの、最後まで読む気が起こらないだの、23年前の一世を風靡したブームは、今の時代では無理なのかとも疑いたくなる。蛇足の話だが、この物語の自殺した登場人物や現実世界の自殺する人も、大正・昭和初期に美談として受け入れられた心中よりは良い。「ノルウェイの森」でも心中する人は誰もいない。現実の社会でも心中って少なくなった。一時期、ネットで集まった知らない人同士で自殺することが問題になったが、これは心中とはちょっと違う。心中とは死語の世界でも一緒に居たいという気持ちから行うものなのだ。僕自身も今回の再読で、「嗚呼、重いなぁ」と感じた。今の若い人の気持ちが分かる。しかしそれは、恋愛小説として読むから気分良くないのだ。繰り返すが 、1987年の出版時に巻かれた帯には「100パーセントの恋愛小説」とあった。しかしこれは講談社の販売促進作戦であって、村上春樹が「ノルウェイの森」を恋愛小説としてはいないのだ。その証に、この長い小説の始めと終わりに2度も同じ文章が出てくる。それも太字で。それは、「死は 生の対極としてではなく、 その一部として存在している」という”僕”の気づきだ。死者が生きている自分と違う世界に行ってしまうと思うから、死は辛いのであり恐ろしくなる。でも、魂が肉体を離れることが死だと仮定したらどうだろう。肉体が無くなっても魂が近くにあっても不思議でない。物理学が基礎である人間の科学では、非物質である魂はその存在を証明出来ない。しかし、物理学が抜本的に頓珍漢かもしれないのだ。2,000年前に祈祷が医療だった頃はこれが正しいと思っていたようだし。心中が美談になった時代も、死が対極であって離ればなれに成りたくないという心情がそうさせた。村上春樹は「ノルウェイの森」で、死と生について語ったのだ。”僕”は自分の気づきを確認しながらも直子に対する記憶が無くなるのを恐れるが、愛する人を忘れるのが離ればなれという対極ではないのだ。なぜなら、あなたが人を愛した時、その肉体という物質を愛したのではなく、非科学的な魂を愛したはずだから。横尾けいすけ Yokoo Keisukemail to cayman450s@yahoo.co.jp