|
カテゴリ:【二人三脚】介護看護リハビリ
トキワ荘の同志、藤子不二雄(A)氏が葬儀委員長を努め、
しめやかならぬ、にこやかに、告別式が行われました。 昭和30年代、石森章太郎、赤塚不二夫、藤子不二雄ら、多くの明日を夢見る若いマンガ家たちが青春時代を過ごした実在のアパート“トキワ荘”での彼らの物語を、史実に基づいて描く!■トキワ荘の青春■ 弔辞のタモリ氏は、赤塚氏により見出された天才。 確か子供の頃に、赤塚氏による「タモリ誕生物語」みたいなのを読んだのを覚えています。 その衝撃たるや。まさに漫画。ギャグの世界です。 タモリ氏が語った。 「私が人生で初めて読む弔辞があなたのものとは……。」 「今まで一言もお礼を言ったことがないが、今お礼を言います。」 「私もあなたの数多い作品の一つです」 タモリ 以下、『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋 【赤塚 不二夫(あかつか ふじお、男性、1935年9月14日 - 2008年8月2日)】 日本の漫画家。『天才バカボン』『おそ松くん』などのギャグ漫画で知られている。本名は赤塚 藤雄(あかつか ふじお)。血液型A型。 赤塚不二夫トキワ荘の青春 [闘病生活、そして晩年] 1987年、多忙を極める中アルコール依存症に陥っていた不二夫のサポートをと前妻が勧めたことにより、眞知子と結婚。 1988年、『おそ松くん』『ひみつのアッコちゃん』がフジテレビ系列で再びテレビアニメ化。さらに1990年には『平成天才バカボン』がフジテレビ系列で、『もーれつア太郎』がテレビ朝日系列でテレビアニメ化。 1994年、赤塚のアルコール依存症が回復しないことにより、長年アイデアブレーンとして赤塚を支えてきた長谷がやむなくフジオプロを脱退[10]。 1997年、第26回日本漫画家協会賞文部大臣賞を受賞。 1998年、『ひみつのアッコちゃん』がフジテレビ系で3度目のテレビアニメ化。同年、紫綬褒章受章。食道がんの手術を受ける[7]。 1999年、『レレレの天才バカボン』がテレビ東京系でテレビアニメ化。 2000年、硬膜下血腫で手術。 2002年4月、検査入院中に脳内出血を起こし倒れ、一切の創作活動を休止。同年、小学館から『赤塚不二夫漫画大全集 DVD-BOX』(デビューからの作品を集めたDVD全集)が発売された。2003年、妻の尽力により青梅市に青梅赤塚不二夫会館を設立。2005年からはオンデマンド出版形式で全271巻が販売されている。 2006年7月12日には、赤塚を看病してきた妻の眞知子がクモ膜下出血のため56歳で急逝。 「なぎら健壱FC会報」によると2004年から意識不明のまま植物状態にあったという。2006年末に眞知子夫人の訃報を取り上げたテレビ朝日の『報道ステーション』で、赤塚が意識不明であると改めて伝えられた。2008年2月24日にはちばてつやが不二夫を見舞い、似顔絵をブログで公開した。 2008年8月2日午後4時55分、肺炎のため東京都内の順天堂医院で死去した。享年74(満72歳没)。 赤塚の訃報はスポーツ新聞各紙が一面で大きく取り上げた他、一般紙も一面で大きく掲載した。また、民放ばかりでなくNHKでもトップニュースで取り上げられた。漫画好きで知られる自由民主党幹事長の麻生太郎代議士は「あの種のギャグ漫画の草分け的存在で『シェー』をはじめ、よく笑った」とコメントした。 また、赤塚が才能を見出し、芸能界へデビューさせたタモリは「物心両面の援助は肉親以上のものでした」と赤塚の死を悼み、感謝の言葉も載せた。 また、赤塚の最初の妻であり長女りえ子の実母が、赤塚の死去の3日前の7月30日に死去していた事が後に報じられた。 赤塚の葬儀では、藤子不二雄A(安孫子素雄)が葬儀委員長を務めることとなり、8月6日に通夜、翌7日に葬儀・告別式が東京都中野区内の寺で営まれた。告別式ではタモリが弔辞を読み上げた。法名は「不二院釋漫雄(ふにいんしゃくまんゆう)」。 赤塚不二夫のギャグポルノ・気分を出してもう一度(DVD) ◆20%OFF! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008.08.07 21:54:28
コメント(0) | コメントを書く
[【二人三脚】介護看護リハビリ] カテゴリの最新記事
|
|