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シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

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2013年03月07日
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カテゴリ:軟弱日本を斬る!
 昨日だったか、日刊ゲンダイに、侍ジャパンの侍はスポーツに相応しくないというような記事が載っていた。確かに、いま読んでいる八切止夫作品集から、日本の歴史を考えてみても、サムライのイメージが一人歩きしていることに気づかされる。

 また、世に出回っているサムライのイメージからすれば、負ければ切腹しなければおかしいが、代表を辞めたという選手もいないから、単なる戯言、虚言にすぎないので、そんなに目くじらを立てる必要もないが、かつての日本軍部が戦意高揚に、サムライを用いたので、あながち油断がならない。平和のためのスポーツが戦争を招いてしまうのなら、元も子もない。

 日刊ゲンダイの記事も指摘していたが、平和のためのスポーツ活動が、部活動での自殺を生んでしまうほど劣化しているわけだから、無責任な戯言や虚言にも問題がある。

 確かに、もはや日本にサムライがいるなんて思っている外国人もいないとは思うが、では、日本人でさえ、サムライとは何かとはっきりといえるほどの知識を持ったものもいないわけで、ただ漠然と、ツチノコや口割け女のような都市伝説として語られる存在とほとんど同じになっているのは、自国の歴史すらも知らない民族として嘆かわしいことである。

 そこで、八切止夫作品集からサムライとは一体何かを改めて考察するのによい話を抜粋紹介する。

 ☆  ☆  ☆

 剣豪なのか塚原卜伝

 「こしゃくなり爺ッ」と抜く手もみせずに、氷のような大刀を引き抜きざま振りかぶり、二つになれと斬って掛ってくるのを、その時すこしも周章(あわ)てず、「何を致す‥‥」

 ちょうど囲炉裏に向かって雑炊をつくっていた処ゆえ、咄嗟にその木蓋をとって、頭上から電光のごとく見舞ってくる太刀先を、「慮外致すな」と受けとめ、相手が思わず、つんのめる処を、すかさず、「この未熟者めが‥‥」と白刃を押えていた木蓋で、今度は相手の頭をポカリと叩きのめし、「このわしを‥‥塚原卜伝と知ってか」といえば相手は、土間にころげ落ち、「命ばかりはお助けを‥‥」両手をついて三拝九拝。

 「この不鍛練者めが‥‥」そのまま手にしていた蓋を鍋に戻し、やおら温顔をとり戻
し、「もう直ぐ煮えるところ、雑炊じゃが一杯振舞おうかな」

 にこにこと何もなかったように落着いたものであった。

 ----というのが知られた講談の中の一部分の抜粋である。

 だが二キロもある日本刀の重みが、せいぜい二百グラムあるかなしかの木蓋に、加速度をつけて激突した場合、いくら鈍刀でもスポンと蓋は切れるか飛ばされるのが道理。

 それを食い止めたばかりでなく、反って叩きのめして、相手をやっつけるというのは、やはり世にいわれるごとく、塚原卜伝という人は、戦国時代の一大剣豪であったのだろうか。

 なにも講談をもって意地悪く追求するわけではないが、日本人は、単なる奉書紙を巻いた五十グラムのもので相手の真剣も叩き落してしまう、きわめて非合理、非科学的な荒木又右衛門の作り話さえ、「武術の極意」とか「至妙の業」といった神がかり的なもののいい方で、さも当然らしく粉飾してしまって広めたり、「剣禅一致」といった判ったような判らぬ説明で、アイマイモコたる発想をもって尊しとするまやかし精神さえも堂々とまかり通るところの国民性をもつ。

 しかし日本人が特別そうした方面に豪くて、ヨーロッパ人は愚かで精神面で劣っているのかも知れないが、ケンブリッジ出版社からでている向こう版の剣道極意書であるところの、『フェンシング必携』には、はっきりと、「剣技のすべては、その個人の運動神経の如何による。それは生まれつきのものである」とまで極言しているのである。

 もちろん突きだけのフェンシングと、大上段にふりかぶり、「やあッ」と叩っ斬る日本刀とでは違うかも知れないが、吾々としては、「剣の途は至妙の一語につきる」とか、「剣は人なり」など難かしい事をいわれるよりも、運動神経(能力)と、ずばりいわれる方が、成程そうかと納得しやすい。

 そして鍋の木蓋と刀で激突したら、蓋の方がバッサリ切れてくれない事には、どうしても可笑しくなる。

 もちろん日本紙がいくら丈夫であったとしても、またそれを荒木又右衛門が握っていた処で、やはり真剣の方が当たったら紙を切ってくれねば、あまりにも不合理すぎて、漫画的な見方しかできない。

 なのに、この日本という国では、「石が流れて、木が沈む」という諺があるごとく、ムジュンというものが大手をふって罷り通るような処もあるから、子供だましのような剣戟ごっこが、きわめて好戦的ムード作りに役立つとでも、為政者に思われがちなのか、明治以降は日清日露そして満州事変、大東亜戦前夜には、きまって、「剣だ、剣だ」と叫ばれ、剣豪ものを流行させるような風潮があるようである。

 そして、そのたびに代表的スターのごとく、まっ先に担ぎ出されるのが、この、「剣聖・塚原卜伝」なのである。だからして個人的に、卜伝に好き嫌いの感情などあるわけはないのだが、どうしても、その剣聖なるデフォルメに対し、槍先をつきつけるしかないようである。

 山の中で仙人みたいに木の実を食して暮したら、そんなに野猿のごとくにも警戒本能が発達し、運動神経は鋭敏になるものだろうか。

 脂肪分がつかなくなって何キロかは減量し、そのため身軽になって敏捷になるだろう位は想像がつくが、だからといって反射神経や筋肉の活動がそんなに素早くなるものだろうか。

 有名な歌手が海浜で声を鍛えたという話をきき、音楽女教師に好かれたい、認められたいの一心で、小学五年生の時、息吹山のキャンプで一週間あまり山中でドレミファを我鳴(がな)った。

 しかし直るどころか急性咽喉炎になって湿布をまかれ、酸素吸入器を毎日かけられ涙をぽろぽろこぼした思い出がある。

 これは芸大へ入って、いくら発声学をやっても音痴では駄目なのと同じことだろう。

 幕末の文化年間(1804~17)に美濃紙の本場武儀川べりの紙すきが、石臼でこうぞを細かく潰してホモジナイズ化するという、日本では画期的な製紙法に成功した。このため従来の倍が量産されるようになり、従って紙価はこれまでの三分の二までに下落した。そこで安い用紙を用いて、いわゆる文化文政の出版ブームが起きた。

 さて、こうなると必要なのはライターである。そこで出現したのが、若狭小浜の軽輩武士だが、本居宣長なき後の松坂の塾へ入門し、古典をきわめたという伴信友がでてきた。

 月産千枚、その生涯に三百余の著書をだしたというから、今ならさしずめ大流行作家である。そして彼が書いたものも、『春の秘めごと』といった初期のエロ本から、皇国史観の大家である故黒板勝美が、その『六国史』の序文に、恭々しく、「この三代実録の原本は、伴信友先生校訂の貴重なるものでありまして」と、あるごとく、「清和・陽成・光孝」の日本三代実録の総漢文まで書いたかと思うと、天保時代の撃剣流行に便乗しようとする書店の求めに応じ、「宮本武蔵」とか色々の剣豪をこしらえた。

 塚原卜伝も、また彼の三百余冊中の一冊で、その題名は、『塚原卜伝の伝』とつけられている。

 「幼名朝孝、新右衛門高幹、のち土佐守と名のり、全国修行三度に及ぶ」ともっともらしい書きぶりであるが、この種本は、『甲陽軍鑑』である。

 しかし伴信友は、大衆作家には珍しい士分の出身で、ライターになってからも大小をさし、いつも威儀を正していたから、近世における考証学派の泰斗として寓されていたゆえ、「伴先生のお書きになるものは間違いない」という定評があったらしい。

 そこで塚原卜伝の話も、『山鹿語類』『鹿島史』『関八州古戦録』『翁草』といった享和以降(1801~)版本になったものには、版行するときに書き加えられたのか、みなそう入っているので、いつの間にか実在化され、かつては講談本の花形であったのである。

 というのも、他の武芸者は余りぱっとしないが、「塚原卜伝は兵法修行にて廻国する際、大鷹三羽を据えさせて携行し、乗換え用の馬も三頭ひかせ、いつも上下八十人ばかりの門弟を伴って旅行し、行く先々の尊敬をえていた」とか、「卜伝の一の太刀は、日本国中の大名たちへ相伝されているが、中でも公方の万松院殿(十代将軍家・足利義晴)光源院殿(義晴の子の次の将軍の足利義輝)霊陽院殿(信長に追われた足利義昭)にもみな伝授し、おおいに徳とされたものである」といった記載から、足利将軍家の歴代が習うようでは、「卜伝は超一流の剣豪だったのだろう」ということにされてしまったようである。

 しかし、はたしてこれは文字通り信じてよいものだろうか。

 ☆  ☆  ☆

 文字数制限を超えるので次回に譲る。





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Last updated  2013年03月07日 14時09分13秒
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