カテゴリ:銀輪万葉
本日(2月17日)は久し振りに友人の蝶麻呂氏と再会。二人で京都西山の小塩山(標高642m)に登って来ました。
今回は竹林公園はパス。先を急ぐ。公園の中には竹の資料館などもあるそうだが・・。
竹林の中の道を行くと大きな池に出る。大蛇ヶ池、洛西地域の農業用水の溜め池である。周辺が整備され公園になっている。
中央の鉄塔の立っている山が小塩山。両サイドに3本ずつ鉄塔がある、真ん中に離れて1本ある太い塔のある処が山頂で、その傍に淳和天皇陵がある。
南春日町バス停を過ぎ、樫本神社の前を通り、大原野神社の、一の鳥居を過ぎ、登山道へと向かう。大原野神社から勝持寺経由で、そこから登山道に入るというのが小生の考えであったが、蝶麻呂氏は道を直進すると行ける筈・・ということで、そのまま行く。確かに「左、淳和天皇御陵道」という碑もあったので、それを行く。
いい感じの道であったが、これは林道。やがて、道は消えて、急斜面を登ることに。楚や放置された間伐材などの障害物と闘いながら、必死で斜面を登るうちに、何とか舗装された道に出る。 この先で地道の登山道があり、それを登る。舗装道路をショートカットしている急登である。再び、舗装道路に出た処で12時半位になっていたので、道端の手頃な大石にコンロを据えお湯を沸かし、昼食とする。
雪の舞う中で食事を済ませ、珈琲を呑んで、体も温まった処で出発。いつの間にやら雪で真白になっている道も。
ようやく山頂に到着。途中、蝶麻呂氏との会話に気を取られていたのか、ショートカットの山道への入口を見落とし、舗装道路で山頂まで来てしまった。かなりの遠回りで、淳和天皇陵到着は午後2時24分。
淳和天皇<延暦5年(786年)~承和7年5月8日(840年6月11日)>は第53代天皇。桓武天皇の第7皇子の大伴親王。母は藤原百川の娘、旅子。薬子の変(810年)で廃太子となった高丘親王(平城天皇の子)に代って皇太子となり、異母兄の第51代平城天皇(安殿親王)、同第52代嵯峨天皇(神野親王)の後を継いで弘仁14年(823年)に天皇に即位し、天長10年(833年)に嵯峨天皇の息子・正良親王(仁明天皇)に譲位している。 淳和天皇の「大伴」という諱と同じというのは畏れ多いと、大伴氏は淳和即位後に伴氏に改姓しているから、ヤカモチも無関心ではいられない(笑)。これなども藤原氏による大伴氏への嫌がらせであったのではないだろうか。 この時期の天皇の地位承継は複雑。桓武天皇の遺志によるものらしいが兄弟間及びその系統が交互にたすき掛けで皇位を承継する変則的なもの。仁明天皇即位の際にも皇太子は淳和天皇の子、恒貞親王がなっている。このような不自然・複雑な皇位継承の在り方は、淳和上皇、嵯峨上皇が相次いで崩御したことによって、権力中枢に動揺を生じさせることとなる。藤原氏による他氏排斥の最初の事件とされる承和の変(842年)へと繋がって行くことになるのである。 話が脱線したが、淳和上皇は、その遺詔により、火葬に付され、遺骨は小塩山の山頂付近に散骨されたとのこと。今ある淳和天皇大原野西嶺上陵は、幕末に築造されたものである。
さて、下山である。「南春日町バス停へ」とある細い山道を下る。雪ですっかり白っぽくなっている。
どんどん雪が降って来て、無帽の小生は髪がすっかり濡れてしまっている。急坂の悪路にて滑りやすいので、どんどん走るようには降りられない。
ようやく下山。上の写真の左側の道から下山して来たが、往路、林道に迷い込んでしまわず大回りすれば、右側の道に出たのだと思われる。この後、大原野神社に立ち寄るなどしますが、それは明日のこととします。(「大原野神社から桓武天皇皇后陵へ」に続く)
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