願望実現
潜在意識を活用した願望実現の基本的な定式は、その願望をありありとしたイメージで描き、それが既に実現していると実感として感じること。その感じを潜在意識にしみこませることである。たとえば、その一つの方法として、願望の実現した状態をコラージュ等で作成する「宝の地図」がある。 「宝の地図」を描くとき重要なことはいくつもあるが、シャクティ・ガーウェンによると、その一つは「これかこれ以上のことが、関わりのあるすべての人にとって、全面的に満足のいく調和のとれた方法で実現する」というアファメーションを必ず入れることである。もしこのアファメーションを忘れるならば、たとえば他の人に大きな犠牲を強いるようないびつな形で願望が実現することもあるからだ。 そのアファメーションを忘れて、願望実現のテクニックを用いている人々には、まずこのことについて注意が喚起されなければならない。 だが、僕は願望実現のテクニックについては、もっと根本的な改革が必要であると考えている。それはそもそも願望とは何かということに関わる。 現在出回っているニューエイジ系、あるいはセミナー系の願望実現においては、自我が願望したことをイメージとして潜在意識に植え付けることを中心とする。同時に潜在意識にあるメンタルなブロックを外すことも行われる。 基本的にこれは洗脳のテクニックと同じである。そのイメージが他者から植え付けられるとき、これを洗脳といい、自分で自分に植え付けるときは自己暗示という。 自我が願望したことを自分で自分の潜在意識に植えつけることには問題はないのではないかと考える人もいるかもしれない。だが、ここにはひとつのパラドックスがある。そもそも自我というものは、完全な悟りを開いている人以外においては、潜在意識に規定されている。 たとえば貧しい幼少時代を送り、そのことで心に傷をかかえている人は、物質的に豊かになることと幸福とを過剰に強く結びつけてしまう。心の奥にそのような傷を抱えたままであれば、自我は当然、もっと物質的に豊かになることを願望するであろう。 このような人が願望実現のテクニックと出会えば、自我の願望する物質的に豊かな状態のイメージを具体的に思い描き、潜在意識に植えつけることを試みることになるだろう。そして、イメージが鮮明で、それについての現実的な努力も怠らないのであれば、そのことはやがて実現する。 だが、たとえどれほどそれが実現したとしても、その人はけっして満足することはない。なぜなら、その人の心に抱えた傷はそのままであるからだ。どれほど物質的に豊かになっても、まだ完全には幸福でないことを感じたとき、その人は心に抱えたままの傷から、こう考える。「もっと豊かになることが必要だ」。このやり方ではこの旅には終わりがない。 実はこれは究極的な意味においては、「願望=幸福」を実現する道ではない。 では、どのようにすればいいのだろうか? (つづく)