今年一番印象的だった出来事はオウム真理教事件関連死刑囚の処刑だろう。
オウム実行犯の心理はどう考えてもよくわからない。
そもそもなぜ入信したのだろうか。
人生と世の中が不条理なものである以上、宗教の需要は必ずある。貧、争、病を背景にして昭和の新興宗教は信者を増やしたというのだが、それは伝統宗教も事情は似ている。習俗としての信仰?は別にして、人生の不幸を契機にして宗教を考えるという人は世に多い。
けれども、オウム実行犯にそれほどの人生の不幸があったとは思えない。なんとなくむなしいとか、超能力に憧れてとか、そんなことが背景にあるのだったら、それは一種のぜいたく病のようなもので、信心のおかげでどん底から救われたという巷の宗教とは全く異質である。
そして犯罪の動機となるとさらにわからない。よく閉鎖された情報空間の中でのマインドコントロールがいわれるが、信者たちはある時期までは普通に生活しており、いくらオウムが閉鎖的集団であっても、独裁国家や砂漠の中のテロ集団とは違う。このあたりの心理は実行犯の医師(無期懲役)の手記などを読んでもよくわからなかった。
そういえば昨日だったか東京新聞に死刑制度についての社説が掲載されていた。
ヨーロッパでは死刑が廃止されているが、フランスでの死刑廃止は意外に遅い。
世論調査では大多数が死刑制度に肯定的だったのだが、時の大統領が世論よりも良心に従って死刑を廃止したという。東京新聞の論調はこうした決断に肯定的のようなのだが、世論に反することを承知の上で唱えられる死刑廃止論というのは偽善的で選民思想にこりかたまっているようにしか思えない。
オウム実行犯の処刑はあまりにも遅すぎ、「犯人達は松本サリンで死んだ息子の年よりも獄中で長く生きた」という遺族の言葉には実感がこもっている。
またオウム実行犯の処刑の前に市川一家4人殺害の関光彦の死刑執行もあったのだが、これも、残された遺族が事件に区切りをつける必要を考えると遅きに失したように思う。