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カテゴリ:雑感
仏教説話集の日本霊異記と発心集を読んだとき、その説話の違いに驚いた。平安時代初期の日本霊異記ではその多くは仏教信仰のおかげでこんなご利益があったという話になっている。ところが鎌倉時代初期の発心集では肉親の死などで世の無常を感じ出家したという話がほとんどである。仏教が受容された当初は仏教は異国の神であり、仏事も支配層中心だったが、ある時期から民衆にも信仰が広がり、それと同時に信仰の中味も現世志向から来世での平安を願うものが中心になっていったのであろう。そうした流れの中で大きな役割を果たしたのが法然上人だった。南無阿弥陀仏を唱えていればよいという簡単な教えは誰にでもわかりやすかったし、民衆は経典を読むだけの金や知識もなく、加持祈祷を頼む余裕もなかったのだから。 死ぬときは阿弥陀仏が迎えに来て浄土に連れて行ってくれる。戦乱、災害、飢え、疫病など、死はどこにでもある。それに対して人々は無力だったのでそう思うしかなかったのだろう。 「法然と極楽浄土」展では、そうした浄土信仰を背景にした来迎図や仏像などを展示している。阿弥陀如来の柔和そのものの御顔をみると、死の恐怖や不安を克服した表情はこうしたものかとも思う。そしてまた、日本では珍しい涅槃像も展示されている。あのポーズは、今なら寝転がってテレビでも見ている姿勢なのだが、そのくらいに平安な境地で死に臨んだ、終末の理想の姿ととらえられていたのであろう。 有名な西行法師の和歌、願わくは花の下にて春死なむその如月の望月の頃というのも、そうした理想の終末を願う歌ともとれる。如月の望月、つまり2月15日は涅槃の日である。涅槃像の周りには弟子だけでなく、すべての生き物が悲しんでいる様子を描いた像があるのだが、生き物たちのなかにカタツムリまでいるのが面白い。 こうした展示の中で異彩を放っているのが江戸時代の五百羅漢図である。五百羅漢というのは仏陀の高弟達のことで、その姿を描いたものだ。そこでの高弟たちは悟りすました姿をしていない。むしろ超能力(神通)が強調されており、中には手に持った仏像から線が描かれ、不思議な力を働かせていることを表したものもある。仏典の中には、あまり超能力に関する記載はなかったと思うので、逆にこうした超能力を強調した仏画は非常に珍しい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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まあ念仏唱えてればいいっていうかさ・・・・
法然がたどり着いた答えってのは「人間は凡夫である」ってことなんですよ、 人間ってのは煩悩から逃れられず、決してそこから離れることができない、自力による救済は無理であるってことなんですよ、 そんな人間を救済する道があるとすれば、それはただ阿弥陀如来のお力にすがり、他力によって救済されることだけだって話ですよ。 だからただ只管に阿弥陀如来の力を信じ、それにすがり、あなたに帰依しますと唱えることこそ救いの道であるという答えになったわけですよ。 基本的に老若男女、富のあるなし、善人悪人問わず、だれでも阿弥陀如来の力で救われるってのが教えなんで庶民には受け入れやすかったんでしょうね。 阿弥陀如来の救いの前にはすべての人間が平等であるって考えですから・・・・ それと法然は国家の安泰とかいうのから離れて只管個人の救済のみを説いたんですよ、それも庶民には受け入れやすかったんでしょうね。 (2024年04月23日 21時50分08秒)
ふぁみり~キャンパーさんへ
庶民にとってはわかりやすい教えですね。 飢え、疫病、災害、戦乱などのなかで、来世を信じなければやってられないということもありますし、そうでなくても、老いも死も避けられないので、なにかにすがるというのもわかります。昔は日本の高齢化の予測を聞いた時、宗教が大ブームになるかも…と思いましたが案外とそうはなっていませんね。今の高齢者は高齢でも来世のことはあまり考えていないようです。 (2024年04月24日 08時17分08秒)
>庶民にとってはわかりやすい教えですね。
Simple is Bestでしょう。 >飢え、疫病、災害、戦乱などのなかで、来世を信じなければやってられないということもありますし、そうでなくても、老いも死も避けられないので、なにかにすがるというのもわかります。 人は生きている時も死ぬ時も、本能的に何かに縋りたくなるものです。 生きている時は何かしらの逃げ道を誰しも探し当て、結構逃げ続ける事が出来ますが、死ぬ時だけは逃げ道はありません。 それ故に、宗教が拠り所となるのは、必ずしも一概に悪いとは言い切れないでしょう。 >昔は日本の高齢化の予測を聞いた時、宗教が大ブームになるかも…と思いましたが案外とそうはなっていませんね。今の高齢者は高齢でも来世のことはあまり考えていないようです。 科学的にどう考えても、死の世界はあり得ず、死の世界は想像上の虚構の世界であることを、普通の科学的思考のある人は誰しも、知ってしまったという事でしょう。 ◇ 宗教と大業に構えずとも、人はいつどこでも祈る事はできる。 生きている時も死ぬ時も、人は己れの望むことを祈り続ける事が要諦と、不肖曙光は思う処です。 (2024年04月24日 14時16分36秒)
・曙光さんへ
死後の世界があったと見るのと、ないと見るのとでどちらが平安なのかは難しい所です。死後の世界がもしあったとしても、多くの宗教では天国の他に地獄を用意しているのですから。 唯物論や無神論はむかしからあり、近代になって急に増えたわけでもなさそうです。逆に言えば、近代化でほとんどの人が唯物論になったわけでもない。日本でも、ついこの間まで霊がみえると称している人がゴールデンタイムの番組にでていましたし、これだけ科学技術がすすんでも、死後の世界を信じる人も相当数いるようです。 (2024年04月24日 19時54分42秒)
>仏教が受容された当初は仏教は異国の神であり、仏事も支配層中心だったが、ある時期から民衆にも信仰が広がり、それと同時に信仰の中味も現世志向から来世での平安を願うものが中心になっていったのであろう。
日本は神道と仏教の融合が、文化の大きな基となっている。奈良時代から平安時代にかけて、本地垂迹説という論理によって、仏教にアニミズムの性質を持たせたことで、良くも悪くも世俗化が進んだわけですよ。元々、アニミズムは生活に密着した信仰なのですから、まあ、どこのお寺は霊験あらたかだとか、どの神様が強いだとか、御利益重視になるのは当然です。 平安末期から起こった変化というのは、一つは末法思想、一つは私度僧の増加による仏教の国家管理体制の崩壊です。 これに対して、平安末期から鎌倉時代において、宗教革命というべき大きな変化が起こる。 一つの勢力は、仏教の世俗化を嫌い、もっと自らを高めて悟りの道を拓こうとした、またある勢力は、国家管理の強化、鎮護国家による全体の安定を通して救済を得ようとした、そして、法然や親鸞は、そもそも論として霊魂の存在を認めない、当時としてはかなり過激で即物的な思想です。浄土教の考え方自体は南都六宗の時代からあったわけですが、末法思想が流布するにあたって、どのみち現世ではいい事ないんだから…というある種の諦観の中で、極楽浄土への往生というのは大衆的関心となった。欧州の天国と地獄、プロテスタントの予定説に近い考え方でもあり、ボクは近代に入り、日本が比較的欧州の文化を早く取り入れる事ができた要因の一つであろうと考えています。 (2024年04月24日 22時19分50秒)
七詩さん
法然ってことで言うならですけれど、悪いことをしたら地獄に落ちるなんて考えは持ってないですよ。 そういう欲に溺れ、過ちを犯すのもまた人間なわけで、そういう人間を救うのが宗教だって考えですよ。 だからどんな悪人でも、死ぬ間際のほんの一瞬でも救われたいと願い阿弥陀如来にすがるものは残らず極楽浄土に導くのが阿弥陀如来って考えですね。 基本すべての人間は死んだ瞬間に成仏するって考えなんで悪人だろうと善人だろうと残らず極楽浄土に行けるって教えですよ。 で、まあ、宗教ってのは道徳を説くものでもあるんで道徳的観点で悪いことをしたら地獄に落ちるってのはまあわからないでもないんですが、 少なくともこの宗教を信じないものは地獄に落ちるとかいう宗教はろくな宗教じゃない。 まあ死後の世界なんてのはさ、そりゃあるかどうかは誰もわかりませんから絶対にないとは言えないかもしれない、絶対にないとは言えないけれど、だれもそれを見たことはないわけですよ、 誰も見たことがない死後の世界を手前の利益のために利用しようなんてのは、「お前は死んだことあるんか」って話ですよ。 なら過去に死んだだれだれはこの通り地獄に落ちて苦しんでるってこの目に見せてみろって話ですよ、だれも見たことないんですよそんなものは。。。。 この世に生きとし生けるものは誰一人として死んでみたことはないわけで、死んだ後のことなんか誰も分からないんですよ、 それを「死んだあとこうだからこうしろ」なんてのは余計なお世話だって話で、 死後の世界が無いのなら、死んだら全てはそこでお終いなんだから死んだ後のことを考える必要はない、、 死後の世界があるのなら、そりゃその後のことなんか誰も確かなことは分かりようがないんだから、そりゃその時になって考える、死んだ後でゆっくり考えるから今手前に四の五の言われる筋合いはないって話ですよ。 法然の教えってことで言うなら、死んだ後は誰であれ残らず極楽浄土に行ける、だから怖がらずに安心して死ねって言ってんですよ。 (2024年04月24日 22時52分37秒)
鳩ポッポ9098さんへ
プロテスタントは詳しくないのですが、来世のことを考えるよりも、現世の務めをしっかり果たせということでしたら、浄土教の死後のことなど心配するなという教えに通じるものがありますね。 日本における宗教受容の過程も本地垂迹説など興味深いですし、その長い伝統を思うと明治以降の廃仏毀釈、国家神道と言うのが異例のようにみえます。まあ、国家神道も源流は江戸時代の国学にあるのですが。 (2024年04月25日 07時13分04秒)
ふぁみり~キャンパーさんへ
カルト宗教の特徴は御利益よりも祟りを、天国よりも地獄を強調することに特徴があるという話を聞いたことがあります。人は吉のお御籤は気にも留めなくても、凶のお御籤は気になるという心理がある。 あのオウムでも脱会したら地獄に行くという教義があったようで、しかも信者は薬物や過労睡眠不足による幻覚作用で実際に地獄の映像を見ていたりするので、恐怖があったといいます。 (2024年04月25日 07時17分17秒) |