テーマ:人生について(170)
カテゴリ:🔴 M 【私自身のこと】
【橇(そり)のある風景】
昨夜、「老後の楽しみ」というふざけた文を書いたら、作家さんから「英語でエッセイを書いてくれ」とのリクエストをいただいたのだが、私の英語のレベルはとてもエッセイなど書くレベルではない。 申し訳ないから、何か思い出すことを、「日本語で」書いてみたい。 ・・・といいながら、いつも、スルスルと、いやズルズルと、結末も考えないまま、書き出してしまうのだが。 「象の墓場」という題で書いた私の告白調の日記でも触れたことだが、山っ気の多い私は、長年勤務した商社を退社して、米国で米国人の義弟とヴェンチャー・ビジネスをはじめた。 もう相当昔の話になる。 商社を退社してしばらくの間は、新しい人生に希望を持っていた。 貯金もたっぷりあったし、今まで出張ベースでしか来なかった米国での生活に新鮮さを感じた。 伝統のある東海岸でも、旧大陸の英国とはまたひと味ちがう空気の国である。 このビジネスで成功して、ミリオネアになって、自由な生活を楽しもうと思っていた。 ベンツやBWMだって、何台も買ってやってもいいと思っていた。 巨大な工場を買って、それをかなりの人数の労働者を雇用して改装しながら、夢のようなウォーターフロント(当時流行の海辺や河川沿岸の洒落た住宅街)を造成するつもりだった。 フラットも借りず、工場の機械室に寝袋を持ち込んで泊まり込んで、一心に作業をした。 英語の高等教育を受けた(嘘ですが)私に全く理解できない英語???をしゃべる米国人労働者達とも和気あいあいと働いた。 このビジネスの開始が、普通のタイミングであれば、案外早めに成功したのかも知れないのだが、ちょうど米国ではその事業に関する法律が変わり、おまけに住宅ブームが去って、不況になってしまった。 タイミングというものが、人生にいたずらするものだ。 退職金やマンションを売却して資金をつぎ込んだのに、そのビジネスがうまく行かない。 いくら素晴らしいコンパウンド(住宅街)でも、買い手がいなくなったのだ。 うまく行かないと言うだけでなく、収入が無い状態が長く続いた。 私が高い給料をもらっては、そのビジネスも苦しい。 やむを得ず、そのビジネスは義弟にまかせて、私は以前働いた商社の海外店に雇用してもらったりした。 その間に、妻とは離婚し、日本のマンションは売却したのだから、両親が住んでいる実家以外に、フラットを借りる以外に、住むべき家も無いという状態になった。 商社の海外店では、現地雇用というステイタスで、年下の駐在員の部下という立場にもなった。 以前自慢したように、私は海外プラント案件の営業においては、社内はもちろん、業界でもちょっと有名なほどに実績があったが、立場がちがえばだれにでも頭を下げなければならない。 年下の駐在員も、表面的には敬意を表してくれるが、内心はどういう風に私を思っているか、おおよそ見当はつく。 また、その駐在員の働きぶりをみて、「私ならこういう風にするのだが」と思っても立場がちがえば、そのようなことを云うべきでもない。 それでも駐在員は、ベンツで通勤する。 私は厳寒のなか、バスを待ち、混んだバスを乗り継いで通勤する。 私の人生ではじめての「屈辱」というものを、毎日、深く深く感じた。 二年ほどつとめたその商社の現地雇用員をやめて、米国にもどり、ニューヨークで仕入れた米国の女性用ドレスを東欧の市場に売ると言った行商のような商売までした。 ただ、重工メーカーとプラント案件の営業をしたようなおおまかな人間に、地を這って店店をまわるような繊維商売はうまくこなせるわけがない。 費用がかかっただけで、利益は上げることが出来なかった。 ある国で暮らしている元妻と娘を訪問した。 ある冬の朝、娘に会う約束で、安ホテルからバスを乗り継ぎ、元妻のフラットを訪れた。 その週は雪が降り積もっていて、地下の倉庫から娘の橇(そり)を持ち出して近くの公園へ向かった。 失業していても、私の服装だけはロンドンのシティーにつとめていた頃のままで、その国の人達からは「エレガント!」とほめられた。 アクアスキュータムの高価な最高級の黒いカシミア・コートにカシミアの白いショール。 スーツもおおよそそんなものだ。 そんな私の手を引っ張って、娘は元気にすすむ。 朝早い公園はまだ人気もなく、周辺の立木に囲まれて真っ白に広がっていた。 公園の真ん中あたりに、ほんのちょっと小高くなった丘のような場所があり、そこから前日あたりに子ども達が橇で滑り降りた跡が、スロープにクッキリ残っている。 娘とその小高い場所に上り、橇で滑り降りた。 緩いスロープだからあまり速度も出ないが、だからこそ危険性もなく、まだ幼い娘にはちょうどいい。 歓びの声を上げる娘を抱きしめて、何度も滑った。 私が橇を離れても、娘は橇遊びをやめない。 それからは、よちよちと、ひとりで橇のロープを背負いながらスロープを上り、頂上に着くと滑り降りる。 「ダディー!」と、娘が私を呼ぶ。 私に見てもらいたいのだ。 娘は混血だから、薄い栗色の髪の毛と透き通るような白い肌をしている。 原色のアノラックを着て、白いスロープを滑り降りる姿は、欧州人である。 その姿を見ながら、私の胸は痛んだ。 私が米国で働きだしてから、妻と娘とは別居になった。 それだけならまだいいのだが、収入をとざされてからは、私は鬱々として楽しめなかった。 私個人なら、本当にどうなっても平気だった。 もともと、「商社のヒッピー」とよばれていた、奔放な人間だったのだから。 ただ、たまに娘の国を訪問し、喜ぶ娘と一見楽しい時間をすごしているようでも、私はいつも、本当には我を忘れて楽しめなかった。 娘を見ているといつも、胸がシクシク痛んだ。 むしろ娘がはしゃぐほど、痛みが強くなった。 それは本当の痛みのようでもあり、気のせいかも知れなかった。 秋の日の ヴィオロンの ためいきの 身にしみて ひたぶるに うら悲し。 鐘のおとに 胸ふたぎ 色かへて 涙ぐむ 過ぎし日の おもひでや。 げにわれは うらぶれて こゝかしこ さだめなく とび散らふ 落葉かな ~落葉~ 上田敏訳 ヴェルレーヌ 有名なこの歌が、この歌詞が、その時の私の心境に似たようなものだったかも知れない。 身にしみて ひたぶるに うら悲し 胸ふたぎ涙ぐむ げにわれは うらぶれて こゝかしこ さだめなく とび散らふ 落葉 この無邪気な娘の将来を私は担えるのだろうか? 信頼しきっている娘の期待にこたえられるのだろうか? 私は商社を辞めるべきではなかったのだ。 同僚達のように、多少の苦労はあっても先ず安泰で、高給をとって、 世間的にはエリートと言われる、平凡でも安楽な生活を送ろうと思えば送れたのだ。 私は、それに私の家族は これから、生活して行けるのだろうか? この寒い国にいながら、なすすべもなく無為な毎日を過ごしている私。 昔の私の栄光?を だれが知るだろう? この冷たい空気が 胸の中まで吹き込んで、心臓まで凍りつかせてくれれば、この痛みはとまるかもしれない。 「ダディー!」 また、娘の声が冷たい空気の中に響く。 橇(そり)でスタートするところから、私に見て欲しいのだ。 その方向に手は振るが、もう声は出ない。 辺りを見回すと、公園をかこむように屹立する木立も、家々も、白く凍りついて、娘の声と橇の滑る微かな音以外は、無音の世界である。 私はこの想い出を、忘れたことはない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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