テーマ:顕正会について(238)
カテゴリ:御遺命の戒壇
(4)顕正会に御遺命の戒壇を論じる資格はない
日蓮大聖人は『一代聖教大意』において、 「この経は相伝に有らざれば知り難し」 (『平成新編御書』92ページ) と仰せられています。 相伝とは相承・付嘱等と同じ意味で、大聖人の仏法において、師匠より弟子に正しく法を伝授していく大事を、大聖人はこのように仰せられたのです。 そして、御遺命の戒壇を論じるにあたって最も大事なことは、大聖人の血脈を相承されている時の御法主上人がその時の時代性や政治体制を考慮されて、どのように御指南されるかということであり、その御指南に従うことが日蓮正宗の本来の信仰のあり方なのです。 ゆえに、大聖人は『百六箇抄』において、 「但し直授結要付嘱は唯一人なり。白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為し、日蓮が正義悉く以て毛頭程も之を残さず、悉く付嘱せしめ畢んぬ。上首已下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るまで、予が存日の如く、日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり。」 (『平成新編御書』1702ページ) と仰せられているのです。 浅井会長は教学には詳しいかもしれませんが、大聖人の仏法において最も大事な御相承の内容は当然知りません。 つまり、浅井会長は大聖人の仏法の全ては知らないのです。 例え浅井会長が大聖人の仏法の大部分を知っていたとしても、残りの少しの部分は知ることができないのです。 そして、その残りの少しの部分が、大聖人の仏法において最も大事な御相承の内容であり、全てを解くカギなのです。 ゆえに大聖人は「この経は相伝に有らざれば知り難し」と仰せられているのです。 不相伝家の顕正会には、大聖人の仏法の全てを理解することは絶対にできません。 御遺命の戒壇については、時の御法主上人が血脈所持の上から御指南されるものであり、それ以外の者が論じるべきではありません。 大聖人の御遺命を、顕正会のような血脈不相伝の者が、自分勝手な誤った解釈を加えて論ずることは言語道断なのです。 これまで、「顕正会の主張する国立戒壇」の破折を述べてきました。 「国立戒壇」という名称は国柱会の田中智学の創唱で、この「国立戒壇」は明治憲法下の天皇主権の国家体制を背景とし、広く用いられるようになりました。 宗門では世間に弘まったこの「国立戒壇」という名称を、あえて借りて御遺命の戒壇の名称としました。 しかし、戦後になると国民主権の国家体制となり、民主主義となった日本で「国立戒壇」の名称を使用し布教すれば、かえって余計な誤解を招く可能性があります。 このような事情をふまえ、宗門は「国立戒壇」という名称を使用しないことにしたのです。 ここで最も大事なことは、大聖人の血脈を相承されている時の御法主上人がその時の時代性や政治体制を考慮されて、どのように御遺命の戒壇について御指南されるかということであり、その御指南に従うことが日蓮正宗の本来の信仰のあり方なのです。 しかも、「御歴代四上人の主張された国立戒壇」と「顕正会の主張する国立戒壇」は、同じ「国立戒壇」という名称を使用していても意味が異なります。 顕正会では御遺命の戒壇を建立すべき場所は「天母山」であると主張していますが、戒壇建立の地は「天母山」ではなく富士大石寺なのです。 顕正会のような血脈不相伝の者が、日蓮大聖人の御遺命を自分勝手な誤った解釈を加えて論ずることは言語道断なのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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