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アルタクセルクセスの王宮址遺跡

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2005年02月15日
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カテゴリ:西アジア・トルコ
 今日は昼間に吹雪になったが雪は積もらなかった。
 
 昨日のレバノンのハリリ前首相爆殺事件を受けて、アメリカは安保理にレバノン情勢を提議すると共に、シリアを黒幕と断定し大使を召還する措置を取った。アメリカは何か情報を掴んでいるのかもしれないが、こうトントン拍子となるとますます爆殺はシリアがやったのでは無い、と思いたくなる。
 レバノン当局は容疑者一名を拘束したそうだが、イスラエルの手先とかアルカイダ系と発表されるのだろうか。

 昨日の日記でイスラム教の「スンニ派とシーア派がライバル関係にある」とさらりと書いたが、実のところ僕はいわゆる中東(ただし先史・古代)を研究対象にし毎年赴いているにもかかわらず、イスラム教(イスラームと発音するのが本当は正しいようだが、慣例に従いイスラムで統一する)には全く詳しくない。信者でもないので教義や信仰に疎いのは仕方ないにしても、歴史的経緯くらいは知っておくべきではないかと我ながら思う。
 というわけで、シーアとスンニの抗争史について、本で読んだことを手短にまとめることにする。手元に本が多くないので、講談社新書「イスラームの世界史」全三巻、岡倉徹志「イスラム世界のこれが常識」(PHP研究所)くらいである。

 「スンニ」はアラビア語で「慣行」、「シーア」は「党派」のような意味がある。だから「シーア派」というのはいわば「派派」と言っているのと同じで「頭痛が痛い」式の誤りになる。まあ「アラー」は「神」という意味だから、「アラーの神」という日本での言い回しも全く正しくない(そもそも唯一神だし)。「シーア」というのは「シーア・アリー」つまり「アリー派」の略号に過ぎない。
 では「シーア・アリー」とは何か。これはなんとイスラム教初期にまでさかのぼる。
 イスラム教を始めアラビア半島をほぼ支配下におさめた預言者ムハンマドが632年に死んだとき、ウンマ(信徒の共同体)はその代表を決めることを迫られた。ムハンマドは後継者を指名せずに逝ったからである。
 当時ウンマには三つの派閥があり、ムハンマドと共にメッカからメディナに移住(622年)した最古参層、メディナでムハンマドに援助した層、そして当初ムハンマドに反対しのちにムハンマドのメッカ征服によって改宗したメッカの有力者クライシュ族の一門ウマイヤ家があった。結局伝統に従い、最古参層でムハンマドの妻アーイシャの父親であるアブー・バクルが選ばれた。
 アブー・バクルは初代の「ハリーファ・ラスール・アッラー」、つまり「神の使徒の代理人」と呼ばれ、世俗指導面での後継者とされた。この「ハリーファ」が訛って「カリフ」と呼ばれるようになる。2代目はその親友ウマル(在位634年~644年)、3代目は有力者ウマイヤ家から選ばれたウスマーンだった。ウスマーンはウマイヤ家の一門を重用しすぎたため古参層に恨まれ、656年に暗殺された。
 ウスマーンの死後、ムハンマドの従兄弟で娘婿(ムハンマドの娘ファーティマの婿)でもあるアリーがカリフに選出された。ところがシリア総督でウマイヤ家一門のムアーウィヤやムハンマドの未亡人アーイシャはアリーに反対し、既に中東の大部分を支配していたイスラム教徒同士の内戦になった。カリフが神ではなく人間の互選によって選ばれることに不満を持ったアリーの支持者の一部(ハワーリジュ派)はアリーとムアーウィヤ双方に刺客を送り、アリーの暗殺のみに成功した(661年2月)。生き延びたムアーウィヤはカリフとしてイスラム世界の単独支配に成功し、ダマスカスを都としてウマイヤ朝を開く。

 この内戦の際アリーを支持していた人々は「シーア・アリー」(アリー派)と呼ばれていたが、これが「シーア」の起こりである。彼らはムアーウィヤをカリフとは認めなかった。680年にムアーウィヤが死んだ際、ムアーウィヤは息子のヤジードを後継カリフに指名したが、当然アリーの支持者はこれに反対し、生き残っていたアリーの次男フセインを担ぎ出したが、旧暦1月10日にイラクのカルバラーでヤジードの軍に包囲殲滅され殺された。シーアはこの日をアーシュラーと呼び、自傷してフセインの殉教を今も悼む。
 シーアは預言者ムハンマドと血の繋がりのあるアリーとその子孫に一種の超能力的神聖性を認め、最高指導者(イマーム)と崇めた。それ以外は「ただの人」であり、イスラムの指導者たりえないとする。一方ムハンマドの慣行(スンナ)と聖典コーランのみを崇めるべきとする人々はシーアを神ではなく人間を崇拝するものと批判し、スンニ派と呼ばれる。
 
 世襲のウマイヤ朝支配下でもシーアは生き続けた。ウマイヤ朝が衰退した8世紀半ば、やはりムハンマドの親戚にあたるアッバース家は中東では辺境にあたる北東イランに宣教師を派遣してシーアを扇動して叛乱を起こさせ、それに乗じてウマイヤ朝を滅ぼした(750年)。ウマイヤ家の一人はスペインに逃れて後ウマイヤ朝を興し、イスラム世界は分裂する。
 シーアの支持でカリフ位についたアッバース家だったが、一転してスンニの立場をとりカリフ位をアッバース家の世襲とし、またアラブ人の特権を廃してイスラム教徒であれば出自に関係無く取り立てたので、この時代の中東はイスラム教に改宗するものが増えた。しかしバグダードを首都としたアッバース朝の栄華は長く続かず、9世紀に入ると内紛によって分裂し、実権はイラン人やトルコ人の軍閥が握り、宗教的権威のみの存在となる(日本の天皇の存在に近い)。

 イランではイスラム以前から独自の宗教や文明が栄え、また民族的にもセム系のアラブ人と異なるペルシア系(インド・ヨーロッパ語族で、現代は使う文字こそアラビア文字だが言語的にはドイツ語やロシア語により近い)の後裔ということもあり、イスラム体制下にありながら独自の信仰を希求する傾向があった。それがシーアへの支持へと繋がる面があったようだ。特に独特な聖人信仰は12世紀以降広く受け入れられた。イラン北東部マシュハドにある聖地イマームザーデ廟などはその最たるものだろう。
 874年にアリーの子孫で12代目のイマーム・ムハンマド(5歳)が礼拝後に姿を消すと、その支持者はムハンマドは死んだのではなく隠れただけであり、いつか救世主(マフディ)となって戻ってくるという教義の「十二イマーム派」を始めた。シーア派でもっとも大多数を占める十二イマーム派は今も救世主の到来を待っている。
 シーアの中にはその他、穏健派であるザンジ派、アッバース朝に対する叛乱を続けたイスマイル派などがある。イスマイル派は10世紀初めにはエジプトでファーティマ朝を興すほどの力を持った。またイスマイル派のさらに分派であるニザール派はシリアからイランにかけての山城を根拠として「暗殺教団」として恐れられた。
 シーア軍閥の1つに北イランを本拠とするブワイフ朝があり、946年にバグダードに入城する。ここにスンニのカリフを権威として認めつつも実権はシーア政権が握るという共存関係が成立、スンニ派のカリフの都であるバグダードでシーアの宗教行事であるアーシュラーが行われた。現在イラクにシーア派が多いのはこの頃から始まったようである。

 1055年、トルコ人が中央アジアからバグダードに入城、スンニ派政権が復活した。トルコ人の新興軍事政権の下で古い文明の民であるイラン人官僚が重用され、イラン人はその民族意識を昂揚させてイスマイル派の活動も活発化し、スンニ政権下にも関わらずシーアへの傾斜は強まっていく。
 1258年、中央アジアから今度はモンゴル軍が侵入しバグダードを攻略、アッバース朝の第38代カリフは殺されてしまった。アッバース朝の一族はエジプトに逃れてカリフを名乗り、また16世紀にエジプトがオスマン(トルコ)帝国に攻略されるとオスマン帝国の皇帝がそれを引き継いで自らカリフを名乗るが、事実上イスラム世界・スンニ派を束ねるカリフは居なくなったも同然だった。シーアはこれを「不信心者のスンニに対して神の遣わした罰」だとしている。
 なお1924年、オスマン帝国を引き継いだトルコ共和国は、カリフを名乗っていた元皇帝の弟を国外追放し、カリフ制廃止を宣言している。今のサウジアラビア王家の祖であるイブン・サウードはこれを受けて自らカリフを名乗っているが、サウジ以外で認めているものはいないだろう。
 一方1501年に、神秘主義教団の長だったイスマイルはイラン高原を統一、サファヴィー朝を興してシーアを国教としてスンニを弾圧すると共に、オスマン帝国の領内に宣教師(クズルバシュ)を送ってシーアへの教化を図った。オスマン帝国とサファヴィー朝はイラクを巡って激しく戦ったが、シーアとスンニの争いという構図でもあった。イランでのシーアの圧倒的優位はこの時代に定まった。

 現在の国名でいうとアゼルバイジャン、イラン、イラク、レバノンはシーアが多数派、その他の国ではスンニが多数派になっている。レバノン、シリアやイラクのようにシーアとスンニの主導権争いが深刻な政争や弾圧に発展したところもある。1987年には聖地メッカでサウジ治安部隊とイラン人巡礼団が衝突する流血の惨事が起きた。
 シーアが多数を占めるイランでは1979年に革命が起き、聖職者に政治を委託する「ヴェラヤティ・ファーギー」理論に基く政権運営が行われている。これは「中世への回帰」などではなく、近代的エリート層を生み出せなかったイラン社会の苦渋の選択とする評価もある。





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最終更新日  2005年02月16日 09時44分55秒
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