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アルタクセルクセスの王宮址遺跡

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2005年06月28日
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カテゴリ:ヨーロッパ・EU
 今日は一日家に居て部屋の片付けなどをしていた。気温のほうはやや暑さが和らいでいるようだ。
 日本の暑さも大変なようだが、ヨーロッパの多くの地域が熱波に見まわれているようだ。フランス、イタリア、アルバニアなどでは気温が38℃に達し、お年寄りを中心にサッカー試合中の少年なども含め、20人以上が暑さのため亡くなったという。最近では2003年の夏が大変な暑さだったが、今年も4万人が暑さの為に亡くなる恐れがあるとして欧州各国の厚生省は警戒を強めている。またポルトガルでは旱魃のため深刻な水不足になっているとのこと。ドイツは今のところ水不足の心配は無いそうだ。
 夏の盛りにイタリア南部(バリ)に行ったことがあるが、ものすごい暑さだった。車に乗っていたのだが窓側の腕が真っ赤に焼けた。暑いので窓を開けると熱風が吹きこんでくるので窓を閉めていないといけない。当然車内はものすごい暑さになるがその車は冷房がほとんど効かなかった。トルコでもあそこまでの暑さはあまり経験したことが無い。
 ヨーロッパ(特にアルプス以北)の家は冬の寒さ対策を第一に考えているので、暑さにはそれほど対策がなされていないのではないだろうか(イタリアなどは暑さも考えているだろうが)。ドイツで扇風機などほとんど見たことが無い。
「家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬は、いかなるところにも住まる。暑き比わろき住居は、堪へ難き事なり」
とは兼好法師「徒然草」第55段の言だが、日本とヨーロッパはその点対照的なようだ。日本の住居の冬の寒さはヨーロッパ人には耐えがたいものかもしれない。兼好の頃(14世紀初頭)は世界的な寒冷期で、日本でも桜が咲くのは4月末だったらしいのだが、それでも夏の暑さは厳しかったらしい。これはやはり湿気によるものだろうか。

・・・・・・・・・・
 今年は日露戦争の日本海海戦で日本海軍がロシア海軍相手に完勝して100周年(1905年)だが、そのちょうど100年前にはトラファルガーの海戦でやはりイギリス海軍がフランス・スペイン連合軍相手に大勝利を収めている。
 今日はイギリスのポーツマスでこのトラファルガー海戦の200周年記念式典が行われ、エリザベス女王も参列して観艦式が行われた。この式典にはイギリスのほかアメリカ、フランス、スペイン、ドイツ、オーストラリア、日本など50ヶ国あまりから200隻以上の新旧の軍艦が参加し、25万人以上の見物客が集まったという。
 トラファルガーの海戦は1805年10月21日に行われたのだが、200周年式典はなぜ今日だったのだろう。そういや先々週ロンドンに居たとき、ネルソンを主人公にしたBBCのテレビドラマの予告編を見た。
 
 トラファルガーはスペイン南西部にある岬の名前である。1805年当時、ヨーロッパの大陸部分では皇帝ナポレオン率いるフランスが破竹の勢いで覇権を確立しつつあった。陸上ではフランスは無敵の勢いだったが、しかし制海権はイギリス側にあり、ブレストやツーロンなどのフランス軍港はイギリス海軍の封鎖下にあった。
 イギリス側の有能な提督の一人がホレイシオ・ネルソンであり、牧師の息子に生まれ12歳から海軍でのキャリアを積んでいた彼は、既にアブ・キール湾(エジプト沖)の海戦でフランス海軍に勝利を収め武名を挙げていた。フランスとの度重なる海戦で彼は何度も負傷しており、銃弾の破片で右目の視力を失い、また肘に銃弾を受けて右腕を切断していた。木造船による当時の海戦は大砲こそ使っていたものの、帰趨を決めたのは軍艦同士の接舷攻撃であり、時に敵艦に切り込んでの甲板上で凄まじい銃撃戦や白兵戦になった。
 1805年、フランス側はピエール・ド・ヴィルヌーヴ提督率いるフランス・スペイン連合艦隊を西インド諸島(カリブ海)に派遣してフランス領ハイチとの連絡を確保し、さらにイギリスの封鎖下にあるブレスト軍港(ブルターニュ半島の先端)にある艦隊を解放してこれと合流し、英仏海峡の制海権を確保してフランス軍のイギリス上陸を支援する計画だった。この艦隊は西インド諸島に出撃したものの、ネルソン率いるイギリス艦隊に追い回され、ブレスト軍港の解放にも失敗しさしたる成果も無くスペインのカディス軍港に逃げ戻っていた。
 ナポレオンはヴィルヌーヴを更迭し代わりの提督を派遣したが、それを聞いたヴィルヌーヴは汚名を挽回すべく艦隊を率いてカディス軍港を出撃した。海上封鎖中のネルソン艦隊はすぐにそれを捕捉し、10月21日早朝に両軍は接近した。フランス・スペイン艦隊の主力(隊列)艦33隻に対してイギリス側は27隻と数で劣っていたが、大砲の速射性ではイギリス側が優っていた。ネルソンは二列縦隊でフランス艦隊の隊列の中央に突っ込み(日本海海戦の日本側のT字戦法の逆である)、フランス艦隊を分断し撹乱させる戦法を取った。またイギリス側は積極的にフランス軍艦に対して接近戦を挑んだ。ネルソンは「イギリスは各員がその義務を尽くすことを期待する」という意味の旗を掲げて戦闘に臨んだ。
 この海戦の結果、フランス・スペイン連合艦隊は22隻が捕獲され(スペイン海軍の残り11隻は逃走しカディスに逃げ込んだ)、死者4408人を出して司令官ヴィルヌーヴも捕虜になった。イギリス側は船の損害ゼロ、死者は449人だった。イギリス側死者の中には司令官のネルソンも居た。ネルソンは旗艦ヴィクトリー号(全長71m、重量2162トン、砲104門)で指揮を執っていたが、午後2時頃フランス軍艦レドウダブルとの接近戦に際して狙撃され左肩と脊椎に命中、レドウダブル号からの切り込み隊とヴィクトリー号の乗組員が甲板上で激闘を繰り広げる中、午後4時半に絶命した。その最後の言葉は「私は満足している。神は称うべきかな、私は義務を果たした」だったと言われている。享年47歳。
 ナポレオン戦争はその後10年続くが、この敗戦でフランスはイギリスへの上陸への意志を失ってしまい、ネルソンは島国イギリスを救うと共にその海上帝国としての地位を不動のものとした。
 ネルソンの遺体は聖ポール寺院に埋葬され、ロンドンには戦勝を記念してトラファルガー広場が設けられ今もネルソンの像が南方(フランス)を睥睨している。ダブリンにも記念碑があったが、1966年にIRAによって爆破された。戦死した際に彼が着ていた軍服(銃弾の穴もある)はグリニッジの国立海事博物館に、彼に致命傷を負わせた銃弾はウィンザー城に展示されている。またネルソンの遺髪は1905年に日本海海戦を祝賀して日本に贈られ(当時日本とイギリスは同盟国だった)、現在も江田島にある海上自衛隊教育参考館で見ることが出来る。ネルソンの旗艦ヴィクトリー号はポーツマス港に保存されている。





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最終更新日  2005年06月29日 09時43分29秒
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