1155811 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

アルタクセルクセスの王宮址遺跡

アルタクセルクセスの王宮址遺跡

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2005年07月01日
XML
カテゴリ:ドイツ事情
 もう7月になってしまった。早いもので今年も後半に突入である。
 暑い暑いと日記に書いていたら、今日になって天気が悪くなり昼間でも気温が20℃に達しなかった。半袖で外出すると肌寒いくらいである。ここの天気は全く極端である。

 今日は連邦議会の首相信任決議のニュースで持ちきりだった。任期満了の来年に予定されている総選挙を前倒し実施するために、与党SPD(社民党)の議員の一部がわざと保留票を投じ、「予定通り」の反対多数でシュレーダー首相の信任が否決された(つまり不信任)。憲法の規定により大統領は三週間以内に議会を解散し総選挙か否かを決定しなくてはならない。見通しではケーラー大統領は三週間の期限ぎりぎりまで解散を決定しないと思われており、総選挙は9月18日になると見られている。地方議会で惨敗続きで求心力が低下した首相が国民に直に信を問うべく大博打に出たわけだが、今のところ野党の勝利が見込まれている。
 議会の解散と選挙の前倒し実施は他ならぬシュレーダー首相、そして野党CDU(キリスト教民主同盟)の意志でもあるのだが、ドイツ憲法は議会が自らの意志で解散することを禁止しているので(与党が有利な状況の中で恣意的に解散総選挙を行えないようにするため)、こうした複雑な手続きとなった。こうしたやり方は憲法(連邦基本法)の精神に反した法の悪用であるという意見も根強く、与党を含む一部議員は連邦憲法裁判所に提訴する構えである。またいくつかの弱小政党は、こうした解散は準備期間を奪い弱小政党の議会進出の機会を奪うものだと反発している(小政党乱立を防ぐため、得票率5%以下の政党には議席は与えられない。自由解散の禁止もこの5%条項も、議会の混乱でナチスの台頭を招いたワイマール共和国時代の反省に基いて設けられた制度である)。単に首相が辞任すればよかったことではないかという声もある(その場合通常ならSPDの中から誰か別の人が首相になるわけだが、この状況で首相をやりたがる人もいないだろう)。

 今日は奇しくも第9代ホルスト・ケーラー大統領が就任して1周年でもあるのだが、この前代未聞の事態に大統領はどう対処するのだろうか(まあ憲法の規定に従えば議会の解散と総選挙を命じるしかないのだが)。戦後のドイツでは通常大統領に政治権限はほとんど無く象徴的存在なのだが、いわば「御前会議で聖断を仰ぐ」ような異常事態というわけである。
 話が飛ぶが、現在のドイツとイタリアはほぼ同じような政治体制を取っている。大統領は象徴的存在であり、政治権限は首相が握っている。共和制とは言っても大統領権限の強いフランスやロシア、首相のいないアメリカとはかなり違う。むしろ戦後日本の天皇制に見かけの制度上は似ているといえる。ただ1000年以上も世襲が続いている日本の天皇制と両国の大統領制度を並列扱いするのは無理があるかもしれないが。

 どういう偶然か、日独伊の三国は近代的な中央集権国家になった時期はほぼ同じである。イタリアが教皇領であるローマを収めて一応の統一を完成したのが1870年9月、ドイツが普仏戦争で勝利してプロイセン王を皇帝とする帝国になったのが1871年1月18日、大政奉還・王政復古後の日本で廃藩置県が行われたのは同年7月だった。
 ただ日本が古代的な復古主義を呼号したのに対して、イタリアとドイツはそれぞれ辺境に位置するサルディニア・ピエモント王国とプロイセン王国が実力で周辺国を切り従えた統一だった。日本で言えばやはり西南雄藩からなる官軍の島津家(薩摩)か毛利家(長州)が諸侯の盟主として日本皇帝を名乗るのと似たような事態と思えばいいだろう。イタリア統一の過程では伝統的宗教権威であるローマ教皇はむしろ排除されて教皇領を武力で占領しており(イタリア政府と教皇庁は1929年のラテラン条約でヴァチカン市国が独立するまで対立していた)、またドイツ統一の過程では古い統一の象徴だった神聖ローマ皇帝(日本で言えば将軍のような地位だろうか。ただし既に1806年に廃止されている)たるハプスブルク家が排除されていた。将軍を排除し一種の宗教権威である天皇を担ぎ出した日本はこの両者とは微妙に違う。
 王家がにわか出来のせいか知らないが、ドイツは第1次世界大戦の敗戦時(1918年11月)に革命が起きて皇帝ヴィルヘルム2世が亡命(オランダで客死)、イタリアは第2次世界大戦後の1946年に国民投票で僅差で王制の廃止が決定されている(ウンベルト2世など旧王族は追放されイタリアへの入国が禁止された)。もし敗戦直後の日本で天皇制の存続を問う国民投票が実施されていたら、どういう結果になっていたのだろうか。

 ドイツは帝政廃止後の共和制の中でヒトラー率いるナチスが選挙で合法的に政権を獲得し(1933年1月)、翌年首相職に大統領職を兼ねた「総統」になったのに対し、イタリアのムッソリーニ政権は王制下でいわば非合法のクーデターで成立したものである(1922年)。ローマ進軍に成功したムッソリーニに国王が非常大権で組閣を命じたものであり、法的根拠は本来無く、統領(ドゥーチェ)のムッソリーニはあくまで国王に政治・軍事を委託されていたに過ぎない。
 一方ナチス・ドイツやファッショ・イタリアと同じファシズムとして同列に扱われることもある戦前の日本では、ヒトラーやムッソリーニのような強烈な個性は出ず、満州事変(1931年)以降13人も首相が交代しており一体誰が責任者なのか判りにくいところがある(天皇の戦争責任云々はこの辺も関係するだろう)。どれも似ているようでこの辺は随分と違うし、お国柄といえるかもしれない。首相が猫の目のように変わったのはワイマール共和国時代のドイツや戦後のイタリアもそうだったが、現在のベルルスコーニ政権は結構長く続いている。

・・・・・・・・・・ 
 中国の胡錦涛国家主席がロシアを訪問中。共同軍事演習やシベリアの石油パイプライン建設の協力、そしてアメリカの一国主義に一致して対抗していく姿勢を打ち出した。随分仲が良さそうじゃないか。
 なんだかこの二大大陸国家の協力を見ていると、モンゴル帝国を連想するなあ。元とジュチ・ウルス(キプチャク・ハン国)みたいだ。これにフレグ・ウルス(イル・ハン国)であるイランが加われば完璧(原発を売り込みたいロシアはイランの強硬派新大統領を歓迎しているというし)。ただしこの三国ではモンゴル支配はあたかも暗黒時代の扱いだが。チャガタイ・ウルスは中国の派兵や影響力が噂されるキルギスタンあたりだろうか。そういやインドのムガル帝国なんかまさに「モンゴル帝国」(ムガルはモンゴルが訛ったもの)そのままだしな。ただしこれはイスラム教徒ということでインドよりもむしろパキスタンが直系か。
 ヨーロッパのうちモンゴルに征服されなかった地域がほぼ現代のEUに相当する。現在のトルコはシワスのあたりまでがモンゴル(フレグ・ウルス)領で、やはりどっちつかず状態である。一方東アジアでは、当時の朝鮮半島は高麗、つまり元(中国)の属国か・・・。ヴェトナムやチベット、ビルマも元の宗主権を認めていた。元によるインドネシアへの遠征は失敗している。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2005年07月02日 23時30分57秒
コメント(2) | コメントを書く
[ドイツ事情] カテゴリの最新記事


PR

フリーページ

お気に入りブログ

コメント新着

背番号のないエース0829@ 小室哲哉 「安室奈美恵 Never End」に、上記の内容…
ミサキ@ Re:メンテ(10/03) 初めてブログを拝見しました。貴重な内容…

カテゴリ


© Rakuten Group, Inc.