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アルタクセルクセスの王宮址遺跡

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2006年06月07日
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カテゴリ:西アジア・トルコ
 僕はトルコでグルジア人と働いたことがある。彼は著名な考古学者の父親と同名で、やはり同じ科学アカデミーに勤務していた。闊達で冗談好きな彼は完璧なドイツ語とロシア語を話し、酒と煙草を愛する(細かい仕事はそうでもなさそうだったが)。飲むと高名なグルジアのワインを自慢したり、稀にふと従軍体験やロシア人への嫌悪をこぼしたりした。
 なぜか有効期限の切れたパスポートと一抱えの荷物を手に、仕事を終えてバスで故国に帰る彼の後ろ姿と、故国の家族と電話で話すときのグルジア語独特の発音が印象に残っている。そして彼の故国に興味を持ったのだが、グルジアは僕自身の専門にも関係するし、ニュースにも(主に不穏な話題で)度々登場し、この国への興味は尽きない。

 グルジア共和国は面積7万平方キロ弱(日本の約5分の1)、人口500万弱で、黒海の東岸、コーカサス山脈の南側に位置し、旧ソヴィエト連邦を構成した一国である。北隣のロシア、東隣のアゼルバイジャン、そして南隣のアルメニアはいずれも旧ソ連構成国だが、南でトルコとも国境を接している。また国内には自立志向の強い南オセチア、アジャール、アブハジアといった自治共和国・州がある。
 万年雪を戴くカフカス山脈は標高5068mのシュハラ山を最高峰とし、ロシアとの自然国境をなす。この峻険な山脈は同時に北方からの寒気を遮断してグルジアの気候を温暖なものとし、その雪融け水は山麓の2500もの渓谷を潤しつつクラ川に注ぎ、葡萄や柑橘類などの豊かな恵みを保証する。国土の87%が山地であるこの国は金や銅、マンガンといった希少鉱物に恵まれるが、主な産業は農業である。
 ここまで「グルジア」という語を使ってきたが、これはロシア人による他称であり(西欧言語ではキリスト教守護聖人の名に懸けている)、グルジア人は自身を「カルトヴェリ」、その国を「サカルトヴェロ」と呼んでいる。グルジア語は周辺に多いインド・ヨーロッパ語族(ロシア語やペルシア語など)から独立したコーカサス語族に属し、いかにもこの山国らしい。ただしグルジア国内でのカルトヴェリの割合は8割程度で、その他にロシア人やアルメニア人などがいる。

 グルジアはヨーロッパと西アジアの境界上に位置するが、この位置は両者を繋ぐ架け橋の役割を果たしてきた。
 近年グルジア南部のドマニシで175万年前の人類化石が発見されたが、これは人類が発生したアフリカ大陸の外では最古の例であり、人類の進化や拡散の謎を解明する上で注目される。
 農耕や冶金の開始といった文明史上の画期はいずれも西アジアに最古の起源を持つが、近隣のグルジアもその影響を受けた。逆にグルジア起源の遺物が西アジアに分布したり、紀元前1千年紀には北方の騎馬民族スキタイ人がグルジアを通って南下したりもした。
 紀元前8世紀頃からはギリシャ人が船で黒海を行き来するが、彼らにとってこの遠い異郷は身近な存在だったようで、その神話に度々登場する。人類に火を与えたため主神ゼウスに罰せられたプロメテウスは、カフカス山中の岩に縛り付けられたという。また「黄金の毛皮」を求めるイアソンとコルキスの王女メディアの悲恋に彩られたアルゴー船の物語も有名であろう。
 紀元前6世紀頃、グルジア西部にコルキス(コルへティ)王国が成立したが、この国は黄金や製鉄の富で知られ、「黄金の毛皮」はグルジアの枕詞になった。一方で西アジアからの文化的な影響は続き、紀元前4世紀頃にグルジア東部でもカルトリ(イベリア)王国が成立したが、これは西アジアのアケメネス朝ペルシアの弱体化や滅亡と関係するのだろう。
 その後コルキスは小アジア北部のポントゥス王国に服属した。ポントゥスは勢力を拡大するローマ帝国に激しく抵抗したが、その将軍ポンペイウスに敗れ(紀元前63年)、コルキスもローマ帝国に服属する。一方カルトリはローマ帝国とイランのササン朝との係争地になった。

 紀元後337年、カルトリ王国はキリスト教を国教とし、以来グルジアは熱心なキリスト教(グルジア正教)の国となっている。同じ頃独自のグルジア文字(アルファベット)が考案され、現在も使用されている。
 395年に東西ローマ帝国が分裂したとき、コルキスは東ローマ帝国の属国となった。一方カルトリはササン朝の属国となったが、7世紀にアラブ人・イスラム教徒がササン朝を滅ぼした時、グルジアも征服された。こうした外部勢力の支配に対する抵抗運動の中で、文学作品や教会が精神的な拠り所となった。
 975年にバグラト3世が東西グルジアを統一し、バグラト朝が成立する。とりわけ1184年に即位した女王タマルの時代が最盛期で、異教徒に信仰の自由が保障され、貴族による議会の決定や法治を重んじ、また死刑を廃止したという。この時代の教会建築や豪華な書物が各地に残されている。
 しかしその直後の1221年、中央アジアからモンゴル軍が侵入、グルジアはモンゴル帝国の属国となり、さらに1386年にはモンゴルの後裔を名乗るティムールがやはり中央アジアから来襲、グルジアは疲弊した。16世紀に西部は小アジアのオスマン(トルコ)帝国に、東部はイラン(ペルシア)に服属し、グルジアは3つの王国、5つの公国に分裂した。

 18世紀に入ってオスマン帝国やイランが弱体化する一方で、北方では近代化を進めていたロシアの勢力が興隆し、南下政策を推進していく。
 ロシアはまず1783年、独立を保障する代わりに保護国とする条約を東グルジアと結ぶ。しかし1795年のペルシア軍によるグルジア侵攻をロシアは放置し、首都トビリシは破壊され2万人が奴隷化された。ロシアがペルシアに勝った後の1801年、ロシアはバグラト朝の王を退位させ東グルジアを併合した。オスマン帝国の宗主権下にあった西グルジア諸国も、1810年からの半世紀の間に次々とロシアに併合されていった。
 ロシア支配下ではロシア化が推進されたが、同時に西欧式の啓蒙思想や民族主義も流入する。1832年にはバグラト朝復興の動きが起きたが鎮圧された。カフカス支配を強固なものとするため、ロシアはイギリス育ちのミハイル・ヴォロンツォフ伯を総督に任じ、トビリシに総督府を置いた彼の下、西洋式の劇場や図書館が建設され、産業が振興された。1866年には農奴が解放されている。
 1914年に第一次世界大戦が勃発すると、ロシアは連合国として戦ったが、戦争に疲弊して1917年に革命が起きた。ロシアが内戦に陥る中、翌年グルジアは独立を宣言し、敵だったドイツ軍が進駐した。この年大戦は終結したが、連合国もグルジアの独立を承認し、一時イギリス軍が上陸した。独立したグルジアは国際連盟にも加盟する。
 ところがロシアでの内戦は、連合国の介入にもかかわらずボルシェヴィキ(共産党)軍が勝利した。1920年にボルシェヴィキはいったんグルジアの独立を承認したが、翌年2月にグルジアに侵攻して占領し併合、1922年に発足したソ連に編入された。このソ連政府で実権を握っていたのは、他ならぬグルジア人のヨシフ・ジュガシヴィリ、即ちスターリンであった。

 ソ連政府の下、農業の集団化や産業の国有化が行われた。スターリンは独裁体制を確立し反対者を大量に粛清したが、内相としてその片腕となったのは、やはりグルジア出身のラウレンティ・ベリヤだった。
 第二次世界大戦中の1941年、ソ連はナチス・ドイツ軍の侵攻を受けるが、後方のグルジアにあった軍需工場はソ連の勝利に大きな役割を果たした。現在グルジアの輸出品目の第一位は航空機だが、この時に由来するのだろうか。
 スターリンは1953年に死去し、即座にベリヤは失脚した。その後権力を掌握したニキータ・フルシチョフは1956年に「スターリン批判」を展開する。トビリシでもスターリン像が撤去されたが、それに反対する民衆が軍に射殺される事件も起きている。
 重工業を重視したフルシチョフの政策によりグルジアでも産業化が進んだが、同時に闇経済の成長や党官僚の腐敗をもたらした。その綱紀粛正を叫んで頭角を現したのがKGB出身のエドゥアルド・シェヴァルナゼで、1964年にはグルジア内相、1972年にはグルジア共産党第一書記になった。さらに1985年にミハイル・ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任し改革(ペレストロイカ)を始めると、シェヴァルナゼは連邦政府の外相に迎えられ、東西冷戦末期の国際舞台で活躍することになる。
 その改革によってソ連の弱体化や東西冷戦での敗北が明らかになると、抑えつけられてきた民族主義が復活した。1989年、トビリシでグルジアの独立回復を求めるデモが発生し、軍により武力鎮圧される事件が起きる。翌年初の複数政党による選挙が行われると民族主義政党が6割の得票で圧勝、その指導者であるスヴィアド・ガムサフルディアがグルジア最高評議会議長に就任した。
 1991年、ガムサフルディアは国民投票でグルジア独立の是非を問い、その結果を受けてソ連の承認もないまま一方的に独立を宣言し、また大統領に選出された。ソ連はこの年末に解体に至るのだが、ガムサフルディアは旧ソ連諸国で構成される独立国家共同体(CIS)への加盟も拒否した。
 彼の強権的な政治運営に対する国内の反発も強く、この年末に反対派が議会を占拠、翌1992年初頭にガムサフルディアは国外逃亡した。これは独立グルジアの混迷のほんの序章にすぎなかった。

 旧野党はモスクワからシェヴァルナゼを招き、彼は国家評議会議長に就任した。しかし就任早々、シェヴァルナゼは国内の分離独立の動きに直面する。まずグルジア北西端にあるアブハジア自治共和国が分離独立を画策、鎮圧のため派遣した軍は大敗し、20万人が難民化した。さらに北部の南オセチア自治州は北オセチア(ロシア連邦内)との合併を要求して分離を主張、ロシア軍を含む国連平和維持軍が出動する騒ぎになった。さらに南西端のアジャール自治共和国も実質的に独立状態になった。
 一方この窮地につけこみガムサフルディアが舞い戻って反乱を起こすなど、混乱は続いた。シェヴァルナゼは人脈を活用してロシアとの友好関係維持を図り、CIS加盟やロシア軍のグルジア駐留権延長などによってロシアの支援を取り付け、この難局を乗り切った。幾度もの暗殺未遂事件を切り抜けた後、1995年にシェヴァルナゼは大統領に選出される。ソ連外相時代の経験から彼はアメリカやEU(特にドイツ)にも顔が利き、ロシアとのバランスを保ちつつ良好な関係の樹立を図った。シェヴァルナゼは1999年に再選された。
 この微妙なグルジアの位置を揺るがせたのは、今やグルジアの最大援助国となったアメリカの世界戦略だった。グルジアはロシアを通さずにカスピ海の石油を西側に輸出できるパイプライン計画を認可してロシアの不興を買った。さらに2001年同時多発テロ以降の「対テロ戦争」の一環として、アメリカはグルジア軍育成のための軍事顧問団を派遣した。属国グルジアに米軍が入り込むことはロシアには許しがたかった。ロシアはグルジア内の分離独立の動きを支援する態度を見せ、ロシア軍のグルジアからの撤退を遅らせ、またロシアを悩ますチェチェン人ゲリラがグルジア内に根拠地を構えているとして越境攻撃を加えるなど、グルジアを圧迫した。
 一方就任から10年になったシェヴァルナゼの周囲では、汚職が蔓延しつつあった。国内融和のため旧共産党系の人物を政権内に取り込んだのだが、彼らがその温床となったのである。
 2003年11月、選挙での政府の不正を糾弾するデモが首都トビリシで発生、手にバラをもったその参加者は瞬く間に10万人に達し、欧米諸国が政府の不正を批判したこともこのデモを勢いづけた。ミハイル・サアカシヴィリ元内相率いるデモ隊は議会に乱入し新政権樹立を宣言する。アメリカやロシアが調停に乗り出すなど交渉が続いたが、結局シェヴァルナゼは亡命した。
 翌年サアカシヴィリが大統領に選出された。アメリカ留学経験のある彼は親欧米路線を採り、エネルギー供給を依存するロシアから様々な圧迫を受け、経済的には独立以来の苦境が続いているが(一人当たりGNI830ドル)、アジャールでの主権を奪還したり、汚職追放や国営企業民営化などの成果を挙げつつある。





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最終更新日  2006年06月08日 01時26分09秒
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