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アルタクセルクセスの王宮址遺跡

アルタクセルクセスの王宮址遺跡

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2006年09月17日
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カテゴリ:ヨーロッパ・EU
 スペインやポルトガルはイスラム勢力との戦いで制海権を得るために、15世紀には大西洋上の島に支配を及ぼしていた。ポルトガルはさらに探検を進めてアフリカ航路を発見し(1487年に喜望峰に到達)、さらにその向こうのインドへの道を切り開き、アフリカでの黄金や奴隷交易、さらに当時ヴェネツィアやイスラム商人に独占されていたインド洋の香辛料交易に参入しようとしていた。カナリア諸島を領有したものの、スペインは一歩出遅れた。
 ここにクリストフォロ・コロンボ(コロンブス)というイタリア人の航海家がいた。地球は丸いという学説を信じた彼はポルトガル王の許に赴き、大西洋を西に進めばインドに到達出来ると力説した。しかしアフリカ周りのインド航路(東進)が実現化しつつあった当時、ポルトガル王はコロンボに取り合わなかった。次いでコロンボはスペイン女王イサべルを訪ねた。アフリカ航路をポルトガルに独占されていたスペインにとって、コロンボの案は画期的である。
 レコンキスタ完了直後の1492年8月、コロンボは3隻の船団でスペインを出航して西に向かい、61日後にカリブ海のサン・サルヴァドル島に上陸、さらにキューバやハイチを発見した。コロンボは原住民から得た珍奇な品を携えて帰還し、アジアに到達したと主張した。喜んだイサベルはコロンボを副王に任じてさらに三度の航海を支援したが、のちのアメリゴ・ヴェスプッチの航海によってインドではなく未知の「新大陸」であると分かり、彼の名に因み「アメリカ」と名づけられる。
 この成功は同時に、インド航路を独占しようとしていたポルトガルとの紛争となった。世俗的なローマ教皇アレクサンデル6世(スペイン貴族ボルジア家の出身)は調停に乗り出し、1494年に大西洋上のポルトガル領アゾレス諸島の西方370レグア(西経46°)で両国が世界を分割するというトルデシジャス条約を締結させる。これによりポルトガルがブラジルを領有したのに対し、スペインは残りのアメリカ大陸の開拓を独占することになった。

 スペインによる地理学上の発見は続き、1513年にバスコ・ニューネス・デ・バルボアがパナマ地峡を横断してヨーロッパ人として初めて太平洋に到達、そして1519年に出航したフェルナン・デ・マガリャンイス(=マゼラン。彼自身はポルトガル人)のスペイン船団は2年かけてついに西回りでの世界周航に成功した。
 アメリカ大陸にはモンゴロイド系の先住民が居て独自の文化をもち、特に中南米には都市や国家をもつ文明が栄えていたのだが、火器や騎兵をもち詭計に優れたスペイン兵の前には無力だった。コンキスタドールと呼ばれる冒険者によるアメリカ大陸の征服が続き、1521年には中米のアステカ帝国がエルナン・コルテスによって、1532年には南米のインカ帝国がフランシスコ・ピサロによって滅ぼされた。探検は北米にも及んだが、人口が希薄で荒漠なため放棄された。
 スペインは中南米に副王を置いて直接支配し、その産物を収奪した。とりわけスペイン人が目の色を変えたのは豊かな金銀である。インディオと呼ばれた先住民はスペイン語を習わされキリスト教化されると共に奴隷化され、農園経営や銀の採掘(1546年に採掘の始まったポトシ銀山が有名)に従事させられた。「世界システム」とも呼ばれる、ヨーロッパを中心とした世界経済の一体化、あるいは中南米の従属経済の始まりである。
 さらに悲惨なことにインディオにはスペイン人が持ちこんだ天然痘や結核などの病気に対する抵抗力がなく、人口は激減した(逆に梅毒は南米起源である)。労働力を補うため1510年以降アフリカから黒人が奴隷として連行され、特に南米で白人・モンゴロイド・黒人の人種混交が進むことになる。
 南米からはジャガイモ、トマト、唐辛子、カボチャ、トウモロコシ、タバコなどの作物がもたらされ、貧しかったヨーロッパ人の食生活を大きく変えていく(逆にスペイン人はアメリカに麦や馬、羊、牛を持ち込んだ)。アメリカ先住民にとっては災厄以外の何物でもなかったろうが、世界史上画期的な出来事に違いない。

 カスティージャとアラゴンの両王国統一で成立したスペインにとって、当面の敵は以前から西地中海をめぐって対立していたフランスだった。そのフランスの最大の敵はオーストリアやオランダを領有し、神聖ローマ(ドイツ)皇帝の地位をもつハプスブルク家である。両国接近のため、1496年にイサベルとフェルナンド2世の次女フアナはハプスブルク家の王子・フィリップ美公と政略結婚した。
 ところがスペイン王家の子女が次々と夭折してフアナのみが残った。1504年にイサベルが死ぬとフアナはカスティージャ王位を継承し、フィリップが共同統治者となる。やがてフィリップが死にフアナが発狂したと宣言されると、ハプスブルク家とスペイン王家の領土は全て二人の長男であるカールが継承することになった。こうしてスペイン王カルロス1世(神聖ローマ皇帝・オーストリア王としてはカール5世)の下、スペイン、オランダ、イタリア南部、オーストリア、そして中南米などスペインの海外領土をもつハプスブルク家の巨大帝国が成立した。
 ドイツ語が苦手でスペイン人という自覚があった彼にとっての敵は、バルカン半島への進出を続けるイスラム教のオスマン(トルコ)帝国、選挙で神聖ローマ皇帝の地位を争ったフランス、彼の即位の翌1517年に始まる宗教改革で成立したプロテスタント(新教)、そしてドイツ国内の新教派諸侯たちである。神聖ローマ皇帝かつスペイン王という、カトリック教会の擁護者としての宿命的な地位を一身に負う彼は、これらの敵との戦いを続けた。
 彼のスペイン兵はオランダやイタリアでフランス軍と戦い、1525年にはパヴィアの戦いに大勝してフランス王を生け捕りにするなどして名声を得たが、オスマン帝国に対しては1529年にウィーンを包囲され、1538年にプレヴェザの海戦で敗れるなど守勢が続いた。
 度々勝利を収めたものの、新教派の勢いはとどまる所を知らずドイツ諸侯の抵抗は続き、またフランスとも和戦を繰り返して得るところは少なかった。ドイツ人にもスペイン人にもよそ者扱いされたカルロスは、オーストリア王と神聖ローマ皇帝の地位を弟のフェルディナンドに分与して1556年に退位し、2年後にスペインで死んだ。

 カルロスを継いでスペイン王となったのは、息子のフェリペ2世である。父と同じくスペイン王、ハプスブルク家、そしてカトリックの擁護者としての使命に燃えた彼は、まず首都を国土の中央にあるマドリードに遷し、自身は王宮・修道院・王家の廟所を兼ねた郊外のエスコリアル宮殿に起居した(宮殿にこもっていたため書類王と呼ばれる)。
 彼の政策の柱は貴族を抑えた中央集権・絶対王政の確立、そしてカトリック擁護のための戦いである。後者の目的のため、彼の治世下のスペインでは異端審問や魔女狩りが盛んに行われ、イスラム教徒やユダヤ教徒に対する締め付けが一段と厳しくなった。1568年にはグラナダでモリスコ(イスラム教徒)の反乱を招いている。
 こうした内なる敵の他、宿敵フランスとの対決が続き、同国内の内紛でカトリック派を支援して戦争を続けた。また地中海でのイスラム教のオスマン帝国との戦いも続き、オスマン帝国のキプロス島攻略に端を発したレパントの海戦(1571年)でオスマン帝国の艦隊を撃滅し、その攻勢を挫いた(この海戦にはのちに小説「ドン・キホーテ」を著わした作家ミゲル・デ・セルヴァンテスも従軍し、負傷している)。
 1580年には王家が断絶した隣国ポルトガルの王位も兼ね、フェリペの領土はヨーロッパの他、彼の名に因んで名づけられたフィリピン(1564年領有)やインド洋沿岸の港湾都市、そして中南米と世界中に広がり、「陽の沈まぬ帝国」と呼ばれた。

 日本に最初に到達したヨーロッパ人は、1543年に中国船で種子島に漂着したポルトガル人だったが(銃器が伝来)、東アジア海域に参入したスペイン人も、世界有数の銀産出国だった戦国時代の日本と多くの交渉を持った。
 中でも日本に初めてキリスト教を伝道したフランシスコ・ザビエルは著名だろう。彼はナヴァラ王国(1512年にスペインに併合)の出身でパリ大学に学び、そこで出会った同じバスク人のイグナチオ・デ・ロヨラと共にイエズス会を設立する(1534年)。当時ヨーロッパは宗教改革の最中で、危機感を持ったカトリック側でも改革運動が模索されており、イエズス会はその一つだった。海外布教のためザビエルはインドのポルトガル領に渡り、そこで日本のことを聞きつけ1549年に鹿児島に上陸した。彼の滞在は2年と長くなかったが、日本におけるキリスト教布教の基礎が確立された。
 その後日本におけるキリスト教信者数は40万人に迫り、1584年と1615年には日本の大名の使節がマドリードを訪問したりしたが、日本を統一した豊臣政権や徳川幕府はスペインの領土的野心を疑ってキリスト教を弾圧し、オランダと結んだ徳川幕府は鎖国の手始めとして1624年にスペインと断交した。

 フェリペ最大の敵となったのはイギリス(イングランド)である。イギリス女王メアリは政略結婚でフェリペの妃となりプロテスタントを弾圧したが、1558年に彼女が死んで異母妹のエリザベスが即位すると、フェリペの求婚を拒んだ彼女はイギリス国教会を中心とする反カトリック政策を始め、フランシス・ドレイクなどのイギリス艦船はスペインの交易船や植民地に対する海賊行為を続けた。
 さらに痛手となったのが、1568年に始まるオランダの独立運動である。プロテスタントが広まった市民社会であるオランダに、フェリペはカトリック(異端審問)の絶対王政支配で臨んだのである。当時オランダやフランドル地方(ベルギー)はヨーロッパ金融業や織物産業の中心地で、その税収は中南米植民地で得られる銀の7倍に上っていた。
 イギリスは果然オランダの独立運動を支援して英蘭両国の艦船によるスペイン商船や植民地への攻撃が続き、1581年にオランダは独立を宣言する。禍根を断つべく1588年、艦船130隻、陸兵2万7千からなるスペインの無敵艦隊(アルマダ)はイギリス遠征に向かったが、嵐による被害やイギリス艦隊との交戦で大打撃を受け、一敗地に塗れた。
 中南米植民地から流入する大量の銀はスペインに富をもたらしていたが、同時に「価格革命」といわれる猛インフレーションも引き起こしていた。こうした中でフェリペは戦争を繰り返して放漫財政を続け、足りない分は重税や貨幣の改悪で補おうとしたが間に合わず、何度も国庫破産が宣告された。経済活動の中心だったユダヤ人やイスラム教徒への弾圧も経済の悪化に拍車をかけた。厳格なフェリペの個性とは裏腹に、貴族や官僚には拝金主義が広まって汚職がはびこった。
 「陽の沈まぬ帝国」スペインの栄光は、既にフェリペの治世中に翳りが見えていたのである。1598年、フェリペは71歳でエスコリアル宮で薨じた。

 1621年に即位したフェリペ2世の孫フェリペ4世は芸術を愛好・保護したが(宮廷画家としてディエゴ・ヴェラスケスがいた)、一方で戦争好きでもあった。
 オーストリアと組んでハプスブルク家の世界帝国再興を目指した彼は、ドイツ三十年戦争に介入してオランダを攻撃したものの得るところ無く、1648年のウェストファリア講和条約でオランダの独立を認めさせられた。この間1640年にポルトガルとカタルーニャが分離独立(カタルーニャは1652年に再統合)、続くフランスとの戦争も1659年に敗北同然の和平に終わった。スペインの凋落は誰の目にも明らかとなり、ヨーロッパの覇権は「太陽王」ルイ14世のフランスに移る。
 フェリペ4世の子カルロス2世は病弱で、その治世下にスペインの内政はますます悪化した。人口は570万人にまで減少、中南米での収奪や重税にもかかわらず国庫は破産状態で、官僚や兵士の給料は遅配が続き汚職がはびこった。国内では貨幣経済から物々交換に後退したところもあった。
 1700年にカルロスは嗣子なく死去し、スペインにおけるハプスブルク家の支配は終焉した。芸術・文化が花開いたスペインの黄金時代の終焉でもあった。





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最終更新日  2006年09月22日 00時43分39秒
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