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アルタクセルクセスの王宮址遺跡

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2007年10月23日
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カテゴリ:西アジア・トルコ
 イランは行きたい行きたいと思いながら果たせずにいてまだ未知の国なのだが、今日はイランに関するニュースから二題。

(引用開始)
<イラン日本人誘拐>国境越え密輸団暗躍…南東部ルポ
10月23日21時48分配信 毎日新聞

 砂漠の大平原に一本道が延び、両側に険しい山脈が走る。イラン南東部シスタン・バルチスタン州のパキスタン国境地帯に入った。今月7日に横浜国立大4年、中村聡志さん(23)を誘拐した武装麻薬密輸団シャハバフシュの勢力圏だ。79年のイスラム革命以降、当局と密輸団の「戦争」が続き、双方で約5000人の死者が出た。街道は当局の統制下にあるが、荒涼とした大地は「無法地帯」だ。【ミルジャベ(イラン南東部パキスタン国境)春日孝之】
(中略)
 最後の検問を過ぎると、左手に鉄条網が走る。向こう側はパキスタン。簡単にくぐり抜けられそうだ。反麻薬の非政府組織(NGO)で活動する大学生、アリ・タジギさん(21)は「街道から外れると遮へい物はなく、国境線を自由に行き来できる」という。地元のバルチ人はパキスタンやアフガニスタンにかけて居住し、イランとパキスタンの二重国籍を持つ者も少なくない。

 世界のアヘンの9割を生産するアフガン、パキスタンからも大量の麻薬がイランに入り、欧州に向かう。「密輸団が多いのは、その地理的条件が最大の理由だ」とタジギさんが説明する。タジギさんの治安当局者の親族も何人もが「殉教」した。NGO活動を始めた理由でもある。
(中略)
 イランはイスラム教シーア派国家だが、バルチ人の大半はスンニ派だ。同州のスンニ派の最高権威、アブドル・ハミド師(60)は「盗賊は部族から外れた連中で、山中に住み着いている。犯罪は一般人とは関係ない」と強調した。一方で「(誘拐事件などに対応するには)今のイランでバルチ人の役割は小さすぎる」と語った。バルチ人もスンニ派もイランの圧倒的少数派だ。口調には、差別的な境遇にあり、協力する気になれないとのニュアンスもこもる。

 「この州の一番の問題は治安だ。治安がよければ『投資』も『観光』もついてくるのに」。ナザリ次長が語った。
(引用終了)


 誘拐された大学生は世界遺産の都市遺跡アルゲ・バムを見に行った際に誘拐されたそうだが、僕にはどうも彼の「自己責任」を問う気にはなれない(たとえば半ズボンで歩き回ってたとかいうのなら責められても仕方ないが、どうだったんだろ?)。同じ立場なら僕だって見に行ってたかもしれない。
 一日も早い解放を祈る。

 それはともかく、この記事の中にバルチ人というのが出てくる。彼らの言語はペルシア系ではあるが、イランの主要な民族であるペルシア人とは別であるという。イランというとペルシア人、シーア派支配の国と思いがちだが、公式統計はない(というか作れない?)ものの、ペルシア人の割合はせいぜい5割くらいだという。バルチ人は2%程度、スンニ派は8%くらいだそうだ。
 「この州の一番の問題は治安だ。治安がよければ『投資』も『観光』もついてくるのに」という言葉は切実である。貧困だから治安が悪いのか、治安が悪いから貧困なのか。現地人同士の利害関係も絡んで簡単な問題ではないが(あっち立てればこっち立たずということはよくある)、現地人は後者だと思っているのではないか。アフガニスタンにも通じる話である。

 次。
(引用開始)
<イラン大統領>突然帰国…アルメニア訪問
10月23日20時18分配信 毎日新聞

 【モスクワ大木俊治、テヘラン春日孝之】インタファクス通信によると、アルメニアのソゴモニャン大統領報道官は23日、同国を訪れていたイランのアフマディネジャド大統領が日程を短縮し、急きょ帰国したと明らかにした。タス通信によると、アルメニア大統領府は「イランで起きた不測の事態と、イラン大統領の国内での延期できない会合」が理由だと説明している。

 イランでは核交渉最高責任者のラリジャニ最高安全保障委員会事務局長が20日に辞任し、後任事務局長にジャリリ外務次官が就任した。ジャリリ氏はアフマディネジャド大統領派で、ラリジャニ氏の辞任は核政策を巡る大統領との確執が原因とみられている。

 こうした中、イラン核問題を巡りローマで23日、ソラナ欧州連合(EU)共通外交・安全保障上級代表とイラン側の会合があり、ラリジャニ、ジャリリ両氏が出席した。英BBC放送によると、イラン国会議員183人が22日にラリジャニ氏支持の署名をするなど、保守派内の亀裂が表面化しており、大統領の突然の帰国はこうした動きが背景にある可能性がある。

 アフマディネジャド大統領は22日にアルメニアを訪れ、コチャリャン大統領と会談した。23日、オスマン・トルコ時代の虐殺犠牲者の祈念碑を訪れた後、アルメニア国会で演説する予定だったが、いずれもとりやめて帰国したという。
(引用終了)


 某超大国の大統領閣下をはじめ、強硬な発言を続けているイランの大統領を独裁者のように思っているむきも多いだろうが、イラン国民の直接選挙で選出される大統領は実は行政府の長にすぎず、軍の統帥権も持っていない。大統領は最高国防会議の一員にすぎず、軍への命令権は最高指導者であるハメネイ師にある。この記事では突然の帰国を国内事情に求めているようであるし、まあ妥当なのかもしれない。先日イスラエルとフランスが、イラン核開発問題でより強硬な姿勢をとることで一致したと時報じられたし。
 しかし僕が気になったのはキャンセルされた予定、つまり「オスマン・トルコ時代の虐殺犠牲者の祈念碑を訪れた後、アルメニア国会で演説する予定だった」のほうである。いくら国の釣り合いからしてアルメニアが「下手(したて)」の立場とはいえ、外交儀礼からすればこういうのはかなり失礼になる(アルメニア側の声明はイランのフォローをしながらも、何か不満のようなものを感じさせる)。急迫する国内事情とはよほどのことか、それとも別の理由があるのか。

 アルメニアとイランは隣国であるが、アルメニアが世界最古のキリスト教国であるのに対して、イランはイスラム共和制の国と、一見対照的である。しかしこの両国は友好国であり、今年3月に両国を結ぶパイプラインが開通したりと経済的紐帯も強化されている。近年アルメニアの旧宗主国ロシアとイランが接近していることとも関係するのだろう。またイラン国内にはごく少数だがアルメニア人のコミュニティが古くからある(最近居心地が悪そうだが、ユダヤ人さえいる)。
 アルメニアは1991年にソ連から独立した時に同じ旧ソ連の隣国アゼルバイジャンと激しい民族紛争というか戦争を繰り広げたが、このときイランが支援したのは同じイスラム教シーア派が多いアゼルバイジャンではなく、キリスト教国アルメニアのほうだった。単純に宗教対立の構図にならないのは、アゼルバイジャン人(アゼリ人)がイラン国民の四分の一にものぼることと無縁ではない。民族主義的なエリチベイ政権を増長させてアゼルバイジャン人の民族意識を高揚させることは、国内でのアゼリ人の分離独立の動きを助長しかねないためだった。なおこの戦争ではロシアもアルメニア支援に回り、周辺国でアゼルバイジャンを支援したのは民族的に同系統の国であるトルコだった。

 ではトルコとイランは仲が悪いのかというと、表面上は悪くない。そもそも中央アジアにいたトルコ民族はイランを通って西アジアに拡散したので、トルコ文化は多くをペルシア(イラン)からの受けており、今もトルコ語の語彙にはペルシア語起源の言葉が非常に多い。かつて16世紀にイラクの支配をめぐって激しく争った(シーアとスンニの宗教抗争の面もあった)この両国の関係は、17世紀以降はおおむね良好で安定している。エリチベイが追放されて成立したアゼルバイジャンの現政権も、国の安定のためイランとの関係を重視している。さらに、これまた面倒だがトルコもイランも国内にクルド人という共通の少数民族を抱えていて、その独立の動きには神経質になっている。クルド人はイラン国民のおよそ7%であるとされる。
 先日の日記に書いたことと関連するが、トルコから見れば、アフマディネジャド大統領がアルメニア人大虐殺の犠牲者の記念碑訪問を中止したことは好都合ではあろう。そのトルコはクルド人(PKK)に対する北イラク侵攻作戦を目前に控えているといわれ、また9月にイスラエル空軍がシリアの核施設?を爆撃した際に(知らぬこととはいえ)領空通過させた。イスラエルはすでに秘密裏にイランの核施設を攻撃する計画も立てていると報じられているが、その場合トルコの対応も焦点になる。先日のシリア空襲をイランは自国への脅威(「実際に爆撃出来るぞ」というメッセージ)とみなし、トルコの「言い訳」を注視していたらしい。

 トルコではPKKが分離独立を主張して20年にわたりゲリラ戦(あるいはテロ)を続けているが、イラン国内でも分離主義者による独立が実際に起きたことがある。
 第二世界大戦中、連合国によるソ連への補給路と油田確保のため、イギリス軍とソ連軍はイランに侵攻して占領した(1941年)。イランは親独的とみられていたためこれは一石三鳥だった。大戦の終結(1945年)後もソ連はイランに居座ろう図り、イランで影響力を確保するため(1917年にロシア革命が起きるまで、イラン北部はロシア帝国の勢力圏だった)、イラン国内の少数民族を支援して分離独立をあおったのだが、その際イランの北西部、トルコやイラクとの国境地帯に成立したのがアゼルバイジャン人民共和国とクルド人民共和国(マハバード共和国)だった。ただソ連軍が国連決議を受けてイランから撤退し、またイラン(中央)政府と手打ちして両国を「切った」ために、この両国は中央政府の攻撃を受けて一年ももたずに瓦解した。
 これは東西冷戦の嚆矢となった危機の一つでもあるのだが(朝鮮半島のようにはならなかったが)、イランはソ連の露骨な野心の前に親米に傾斜し、またイギリスの肝いりでトルコやパキスタンと集団防衛体制であるCENTOを結成した。そのイランが今は世界一の反米国でロシアと接近というのは、歴史の転変を感じる。

 このマハバード共和国というのは、「独自の国を持たない最大の民族」といわれるクルド人がもった歴史上二番目の国である。この共和国には、イラクのクルド人指導者であるムスタファ・バルザニ(現在のイラクのクルド自治区議長であるマスード・バルザニの父)も参加していたが、イラクのクルド人とイランのクルド人の間で対立が起きて足並みが揃わなかった。クルド人内部の抗争は今にいたるまで続いており、それを周辺諸国(トルコ、イラク、シリア、イラン)が利用する格好になっている。
 では一番目は何かというと、1927年から30年にかけて、トルコ東部のアール県でクルド人が起こした「アララトの乱」(イラン国内のクルド人も参加した)の際に宣言された「アララト共和国」であるという。山岳にこもったこの反乱軍は、成立まもないトルコ共和国の治安部隊を何度か撃退した実績があるという(最後は鎮圧されてイランに逃げた)。ただしアララト共和国は認知した国が一つもなかったので、実在した国とはみなさない立場が多い(アララト山がアルメニア人の「心のふるさと」でもあることに留意)。
 なお1979年のイラン革命の際、クルド人組織も反シャー(ペルシア皇帝)に立ち上がったが、シャーを追って政権を奪取した革命派はスンニ派が多いクルド人の自治を認めず、武力鎮圧している。イラクを拠点にイランに対して抗争を続けているクルド人武装勢力もあり、こちらはアメリカの支援を受けているとされる(記事)。アメリカがPKKをテロ組織指定する一方で、クルド人はまた利用されるのか。





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最終更新日  2007年10月24日 03時57分17秒
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