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カテゴリ:江戸切絵図歩きめぐり
2023年05月24日(水)快晴
快晴ではあるが、北寄りの風がやや強い。今回歩くのは、安政5年(1858年)板「東都番町大絵図」のうち、現在の千代田区一番町・二番町・三番町に当たる地区。08:50 番町の森 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第17回 】を歩き始める。 一番町・二番町。「永井坂」を上る。切絵図ではこの坂道を挟んだ両側に「永井勘九郎」「永井奥之助」とあり、この2軒の旗本屋敷が坂名の由来とされる。「イギリス大使館」を訪れる。明治8年(1875年)公使館が現在地に移転、明治38年(1905年)大使館へ昇格した。 イギリス大使館が移転してきた場所を切絵図でみると、「前田丹後守」の上野国七日市藩(現在の群馬県富岡市)前田家(外様)上屋敷・「水野兵部」の旗本屋敷・「永井信濃守」の大和国櫛羅藩(くじらはん、現在の奈良県御所市)永井家(譜代)上屋敷・「南部丹波守」の陸奥国七戸藩(現在の青森県七戸町)南部家(外様)上屋敷の跡地になる。 「五味坂」を上る。切絵図には「ゴミ坂」とある。坂下の五番町と坂上の上二番町を結ぶ五ニ坂が転訛して、ゴミ坂と呼ばれるようになったといわれる。昭和13年(1938年)に実施された区画整理の結果、かつての五番町と上二番町は、現在の一番町に含まれている。 三番町。切絵図に「御厩谷(おんまやだに)」とある。この谷筋に徳川将軍家の厩舎があったことにより、この名前が付けられたといわれる。谷から北へ上る坂道は「御厩谷坂」と名付けられ、解説標柱が設置されている。 切絵図に「村田蔵六」とある。蔵六は長州藩の出身。安政3年(1856年)蘭学の私塾「鳩居堂」を当地に開いた。解説板等はない。後に大村益次郎と改名。初代兵部大輔(ひょうぶたゆう、兵部省の次官)を務め、フランス式軍制を採用して兵制の近代化を推進した。 切絵図に「塙(はなわ)次郎」とあるのは、「群書類従」の編纂で知られる国学者 塙保己一の四男の屋敷。寛政5年(1793年)保己一は裏六番町通(現在の千代田区四番町)に和学講談所を設立、文化2年(1805年)当地に移転した。次郎は保己一の事業を引き継いだ。09:50 東京家政学院前交差点 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第17回 】はここで終わり。 番町の森 → 東京家政学院前交差点 : 4.4 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 45.1 km ) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2023.05.28 13:23:19
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