あちこちの停滞。
登場(予定)人物たちからブログ出演許可もいただき、勝手に気合いを入れていたら、……案の定、止まった。気合いを入れるとキンチョーするのだきっと。勝手に緊張するのだからおおいに無駄だ。バタバタしてるうちに時は過ぎ、もはやブログに日付がついている意味もなく。そして私がバタバタしてる分にはまだいいが、社会も世界もますますバタバタし、 そしてパリの事件だ。ブログ停滞延長。パリに住む知人と、すぐに連絡がつかなかった。日本人で巻き込まれた人は居ないと報道されていたものの、やはり不安な気分にはなる。(ネット通なら、もっと早く無事が確認できてたはずだが。この辺も無駄にバタバタする)「過敏に反応しても仕方ないので、めげずに頑張ります!」と、力強い言葉が返ってきた。やっぱりさすがだ、相変わらずぴしっとしてるのだ、と、安心とともに改めて感心。だが、無事が確認できたときに、あることを思い出した。何年前になるのだろう、ロンドンの地下鉄で爆破事件があった。そのときも友人知人は無事だった。けれど、無事を知らせてきた友人のひとりがあのとき書いていたことが、ずっと頭のどこかに残っている。友人のご両親はロンドンに住んでいた。爆発が起きたその時間、地下鉄に乗り合わせたか、あるいは駅に居た可能性があったという。ご両親は無事だった。そして彼は、こう付け加えていた。 申し訳ないと思うけれど、やはり最初に考えるのは、自分の身近な人間が無事でよかった、ということだった。それに対して罪の意識を感じるけれど、でもやっぱり、そう思ってしまうのだと。 でもそうなのだ。こういう事件が起きると、まず驚いて、そんなに大勢の人が犠牲になったことにショックを受けて、そして、その土地が自分と何かしかの意味で親しい場所であれば、自分の知り合いがそこにいないかと恐怖を覚える。それが自然な反応に違いない。 犠牲になった人たちのことをないがしろにしている訳じゃない。今回のパリのような大都市ならば、知り合いがいる可能性も高まるはずで、「もしかしたら」という不安を抱いた人も多かったはずだ。 そしてその不安が現実になってしまった人たちもいた。だが、このことは逆に、あまりなじみのない場所=しょっちゅうニュースで取り上げられるような都市以外の場所、そこに住む人たちの犠牲に意識を向け続ける人が少ない、ということにもなる。そこにはおそらく、知り合いはいないから。そこに行くことは、もしかしたら一生ないから。 自国以外の国に住む人,あるいは滞在する人は、どんどん増えている。そういう人は、その新たな国に友人ができる。その人が何らかの事件に巻き込まれて犠牲になれば、その人の生まれた国でも、その人が移り住んだ国でも、悲しむ人がいる。自分の知り合いがそこにいるかもしれないと怯える人は、どんどん増えているはずなのだ。 それでも、偏りがある。人が増えない場所もある。昔からほとんど変化がない土地や地域もある。あまり人の行き来がない場所。あまり報道されない土地。 そういうところにも、犠牲者はいっぱい、出ている。悲しむ人もいっぱい生まれている。 もっともっと人が広がればいいのに。と、甘いと言われるに違いないことを思う。 そこに自分の親友がいるかもしれないから、爆撃はやめる、なんてことは出来ないかもしれない。でもほんとに出来ないだろうか。 これから爆弾を投下しようという場所に、自分の子どもがいたら、やっぱりそれは、普通の神経では、できないんじゃないのか。『正義』というのは、怖い。それがどこから来た正義なのか判らない「正義」は怖い。もっと、ひるんでくれないだろうか。 もっと、みんな、弱虫になってくれないものだろうか。 夢物語だ。実際に国境なき医師団の医師まで犠牲になっているのだし。 だけど、Imagineがやたら流れてたのは、ついこの間のことなのに。dreamerは僕だけじゃない、って歌を唄ってたはずなのに。 ―――そういうことをぐるぐるぐるぐる考えていたら、つい先日、イスラムに詳しい知人の話を聞いて、 やっぱり私みたいな甘っちょろい考えだけでは現実に立ち向かえないのかもしれないなと思った。あまりに根が深くてあまりに入り組んでいて、私の頭ではとうてい整理がつかないくらい。だけど、少なくとも、イスラムに対する誤解とか、そもそもの問題とか、そういうことを改めて痛感するきっかけにはなる。そんなふうに、ほんとにイスラム世界にも通じていて、歴史や文化的な背景(「背景」ではないのかもしれないが)をしっかり説明しうる人の言葉を、もっと採り上げてもらえないものだろうか。何につけ、偏りというのは、いい結果にはならない。