形】には「意味」があり、特にアンコールワットのように宗教的な建築物には、細部に至るまでなぜそのような【形】なのかについて意味がこめられているはずです。
われわれがその意味をきちんと理解していない場合、もちろん無心に「きれい」とか「大きい」とか感じてかまわないわけですけど。
・・基本的には意味の体系がかたちになったものが、目の前にあるのだということを忘れないことにしたいと思います。
アンコール遺跡では、全体のプランから石の接合面やレリーフに至るまで、あらゆる部分ですぐれた「技術」を目にすることができます。
シェムリアップ周辺の1000にも及ぶ石造構造物を作り上げるにあたっては、さまざまな技術の開発・蓄積と、それを継承する人のしくみがあったに違いありません。
土木技術に類する技術から工芸技術まで、整えられたしくみが存在したはずで、構造物のそこここに見られる当時の技術が、シロウト目にも興味深く感じられます。
また、ここには完結した「システム」が存在したという気がします。
まず基本的な宇宙観があり、そこから日常生活の日々の瞬間に至るすべてをおおう、ひとつの体系があった、と。
そこでは、全体がひとつの論理ないしは思想によって統制されていた。
構造物のかたち、その細部、人々の行き方や行動もそのシステムに拠っていた、と。
・・そんな感じがします。
アンコールはいわゆる古代遺跡ではありません。
アンコールワットは日本の歴史でも中世にあたる12世紀、シェムリアップ周辺で最も古いロリュオス遺跡群でも9世紀頃です。そのぶんまだまだ身近な【近代】の存在で、「人間くさい」。
しかし、激しい熱帯の気候風土のために風化が進んだ遺跡や、森に飲み込まれてしまった遺跡も多く存在します。
もちろん、そのなかには未発見のままに埋もれているものも、数多く存在していることでしょう。
倒壊のはげしい遺跡では、廃墟の雰囲気がすなわちアンコールだということになります。
そのために、なにかおどろおどろしい雰囲気が漂うように思われるかもしれませんが、それは単に風土に対抗するメンテナンスが滞った結果で、その建物ができた当時を想像すれば、いわば近代的な構造物であったという気がします。
アンコールは、「溶けてゆく遺跡」です。
石の遺跡が、熱帯の過酷な太陽と大量の降雨に繰り返し晒されて、ゆっくりと「溶けて」いるのです。
アンコールに行くということは、失われたものを「想像力で見る」行為なのかもしれません。
宗教建築は石で作られたので残りましたが、一般の民家などは木造だったのでひとつも残っていません。
アンコールトムの内部は深い森ですが、かつては木造の民家もたくさんあったのだと思います。
想像力で見るということは、アンコールに限らず、また遺跡だけではなくて、あらゆる外部に対する基本的な姿勢なのでしょう。
しかし、膨大な石の累積が暗示する「失われた時間」を前にすると、そのように改めて思うのです。
そして、見るということは、単なる個人の意識的な想像力に頼るばかりではなく、やはり知識と情報が前提になるのだと思えてしまいます。