<OCTOBER> piano-es
「なあ、あの二人って、つき合ってんの?」 放課後の教室。私の前の席にこっち向きに座って、高橋は何百回目かの同じ質問をする。(っつーかお前、あきらめたんじゃなかったんかい)「彩乃が『違う』って言うんだから、違うんでしょう?」「そーなの?」 正直私にもよくわかんない。キスしてるところも見ちゃったしなぁ。 よくわかんないけれど、彩乃が今日も三國と帰ったのは事実だ。どうなってんの? って聞いても綾乃が嫌がるから、私はとっくに聞くのをあきらめてしまっている。「なんかさぁ、タマコ大人になったよね」 どこが? って聞かないのは、ほんの少し自覚症状があるからだ。「騒がなくなった」 高橋が残念そうにそう言う。きっと、高橋も自分が騒げなくなったことを残念に思っているんだ。一学期までは何かといえば彩乃にまとわりついてじゃれ付いていたのに、私からしてみれば、高橋のほうがよっぽど「おとなしくなった」。「相手がいないと、わめけないじゃん?」 この場合の「相手」っていうのは、彩乃じゃなくて、今、校舎の裏に呼び出されているモテ男のことだ。彼女がいる人に告白するのって、どういう心理なんだろう?「布川の前でも大人だったじゃん?」「そうじゃなくてさぁ」 最近布川とけんかをしていない。あまりにも多い告白者にいちいちキレるのが面倒になったから、って言うのもあるけれど……けんかするのが異常に怖い。(なんか、私たち変わった……) 何が、なのかはわからないけれど、何かが確実に変わりつつある。「おしまいの予感がすごーーくするのよ」「やーめーろーよーなぁぁっ」 最近異常に怖がりで。布川のことも、彩乃のことも、ぜんぜんいい予感がしなくて。「不必要に、臆病になった」 本気をぶつけたとき、それを受け止めてもらえる自信がまったくなくて。いろいろな感情が、「相手不在」のまま未消化だから、こうやってウダウダと高橋に愚痴るばかりで。「そんなのあたりまえじゃん?」「そうなの?」 嫌われたくなくて。 受け入れられなくなるのが、とても怖くて。「俺なんて今でもびくびくよ」 でも、布川に告白しに来たあの子は、彩乃をさらっていった三國は……。「タマコ、pianoの複数形って何だと思う?」 どちらかといえば唐突に高橋がそう聞く。「何? 突然」「いいからいいから」 よく分からないままにpianoesと指で机をなぞりながら綴る。「俺も、中学生のとき、そう書いたよ」 え? 違うんだ? 一応立場的には受験生なんで、こんな問題で躓いちゃいけない気がするんですけど。「これ、俺の教訓ね。タマコにも特別教えちゃるわ」 中学生が一番最初に習う複数形のルールは、名詞の後ろに「-s」だ。ただし、例外があって、語尾が「s,o,x,sh,ch」で終わる場合は「-es」になる。授業ではさらに例外をいくつもいくつも説明して終わる。たとえばchildの複数形がchildrenだとか、manの複数形がmenだとか。 じゃあ、pianoの複数形は? これが正解、といいながら高橋はpianosと指で机に書いた。なんだ、えらい単純だな。「俺は、テストでこの問題で×をもらったときに悟ったんだけどさ。正解できないなら、考えるだけバカなんだよ、きっと」「なるほどねぇ」 まったく納得していない顔でそう返事をする。分かるけどさぁ。「でも考えちゃうさぁ」 知識も経験も感情もあるから。 ましてや相手がいることならなおさら。「ま、俺もそうなんだけどさ」 うちら、間違えなくバカを見るわな。 それからすぐ、布川が教室に戻ってきて「は? 待ってたの? なんで?」なんてつれないことを言って。私は相変わらず怖がりで「『何で?』じゃないよ、バカ!」とは言えなくて。 パタパタと帰る仕度をして立ち上がる。布川は聞かなきゃ答えないタイプだから、私は布川のことは最近分からないことばかりで。ねえ、一歩先を歩かないでよ。腕を絡めていいのか迷っちゃうから。「あ、そうだ」 教室を出る瞬間、ふいに思い当たって、私は慌てて高橋のほうを振り返った。「あんた、『-es』じゃないって分かっていながらいつまで間違いつづけるつもりなの?」「うるせー、はよ帰れ、バカップル」「英語の話よ」 何の話してたの? と聞いてきた布川は、私がそう答えるとまったく興味ない顔をして目をそらした。完全無敵の体育祭のヒーローも毛虫と英語と、タマコ様には敵わない。……最近は私もめっきり弱くなってしまっているけれど。(こいつ絶対に何も分からないまま『-s』って書くタイプだ) 同じ方向を向きたいから。同じ結論を出したいから。嫌われたくないから。「女の子に告白されるたび、タマコさんの良さに気づくでしょう?」 私はわざと馬鹿なふりをして。 考えてもキリがないから、考えることを放棄して「間違ってるだろうなぁ」と思いながら出す単純な単純な答えが、きっと正解なのだと信じて。「ねえ、キスして?」「は? ここで?」「ここで。してくれるまで一歩も動かないから」 きっと正解なのだと、疑いながら疑いながら、信じつづけて。「なんで泣くの?」「知らない。気づかない振りしてよ」 キスされて泣きたくなるなんて、そんな日が来るなんて、思ってもいなかったはずなんだけど……。