|
カテゴリ:カテゴリ未分類
瀬織津姫の研究を初めてから5年近くになります。
最近では、瀬織津姫に関することのブログでの発信は極力避けるようにしてきました。 それは、瀬織津姫の知名度が広がるのにつれて、主にスピリチュアル系の方たちによって神名を使われる傾向があるからです。 瀬織津姫は歴史的にその神名を伏せられ封印されてきたために、不明なことばかりで、その神秘さと、神名の美しさ、封印され続けてきたという儚さなどから、知る人にとっては大変魅力的な姫神様です。 今回は、瀬織津姫がこれまで思われてきた以上に奥深く、日本の古代史を解明するための鍵になるかもしれないと思うようになった経緯を、ごく簡単にですが記してみたいと思います。 「瀬織津姫」をブログで検索すると、今では驚く程多くヒットしますが、残念ながらその内容はほとんどが同じようなネタ元からの流用と思えるものばかりです。 その理由は、広く公にされている情報が圧倒的に少なく、著書に至っては菊地展明氏の「エミシの国の女神」、「円空と瀬織津姫上」、「円空と瀬織津姫下」の三冊以外に研究資料として価値があると思われるものはほとんどありません。 瀬織津姫の研究は、思いのほかハードルが高く、進めていくためには、神道・仏教・歴史・地理・考古学・民俗学・郷土史などから総合的に検証していく必要があります。 時間的にも金銭的にも、移動などの労力も大変なものになってしまいます。 しかし、例え少しづつでも続けていると、奇跡としか思えないような偶然の重なりによって、僅かではありますが見えてくるものがあります。 これまで瀬織津姫が封印されてきた理由は、女帝の持統天皇即位の正当性を示すために伊勢神宮に祭られていた天照大神を男神から女神に性別変更したために、男神の天照大神と並祭されてきた瀬織津姫が邪魔になったためであるとか、持統天皇のバックにいた太政大臣の藤原不比等による藤原・中臣氏の利益のためではないかとされてきましたが、確かにそれも一因かもしれませんが一つの断片的なことに過ぎないと思う様になりました。 瀬織津姫を研究することは、日本の古代史を研究することに等しく、それは古事記・日本書紀によって封じられた古代史の真実の扉を開くことでもあるのです。 一般の民衆には伏せられてきた瀬織津姫ですが、奥州藤原氏や伊達政宗、織田信長、徳川家康、天海上人、水戸光圀、松尾芭蕉などは知っていた可能性が高いと思われます。 権力の中枢や近くにいた一部の人たちは、真の祭祀と真の日本史を知っていたようです。 瀬織津姫を調べていくと、剣(鉾)なのか鏡なのか、それとも銅鐸なのか、また龍なのか蛇なのか、また、機織なのか北極星・北斗七星なのか金星なのか分からなくなってきます。 現在那智の滝に祭られているのは、大国主命と異名同神とされる大己貴命ですが、大己貴命は熊野では龍神とされ、龍神伝説が残っています。 すると、出雲大社の主祭神である大国主命も龍神なのでしょうか。 そして、本当の那智の滝神は瀬織津姫ですから、出雲大社(杵築大社)の主祭神も瀬織津姫なのでしょうか。 大神神社の主祭神は大物主命ですが、天智天皇の勅命で大津京の守護神として日吉大社西本宮に勧請されると大己貴命として祭られています。 そして、日吉大社の神山である牛尾山の琵琶湖を挟んだ対岸に美しくそびえるのが、近江冨士と呼ばれる三上山です。 三上山の山頂には牛尾山と同じように、御神体の磐座があり山麓には三上神社がありますが、野洲川の対岸の扇状地には里宮とも呼べそうな地に三輪神社があります。 祭神は大国主命です。 この近江の三輪神社の近くには弥生時代後半まで栄えた伊勢遺跡があります。 この伊勢遺跡はあまり有名ではありませんが、古墳時代が始まるまで栄えた大きなクニで、大形の建物跡や、楼閣を中心とした広場の周囲に建物が円形に並んで建てられていた跡が発見されています。 三上山の周辺からは、大形の銅鐸が沢山発掘されていますので、この円形の広場は雨乞いのために風神(気吹戸主命)を呼ぶ祭祀などが行なわれていたのではないでしょうか。 伊勢遺跡近くの三輪神社は、大和の大神神社の本家であったとの伝承も地元に残っています。 そして、この神社には珍しい祭りが伝わっています。 鰌(ドジョウ)祭りです。 秋に獲った鰌を翌年の春まで漬け込んでなれ鮨にしたものを神社に奉納します。 ところが、神社の伝承では、この鰌のなれ鮨は人身御供の代わりだというのです。 大昔は鰌のなれ鮨ではなく、選ばれた少女たちが人身御供とされていました。 それは、おそらく巫女として仕えるために親元を離れなければならなかったためでしょう。 弥生時代の末期から古墳時代の前期は、ちょうど邪馬台国の女王卑弥呼の時代になります。 大和でも、三輪山山麓から数キロ離れた場所に、弥生時代の末期まで栄えた大規模な遺跡があります。 唐古・鍵遺跡です。 この遺跡で発掘された壺の破片から楼閣の絵が見つかり、絵と同じスタイルの楼閣が現地に復元されています。 銅鐸の土型も発掘されていますから、近江と同じように銅鐸の生産を行ない祭祀に使っていたと思われます。 しかし、古墳時代に入ると急激に廃れて古墳が造られるなど墓地として使用されるようになります。 また近くに、鏡作神社あるように、銅鐸から鏡の製作に変わっていきます。 近江の伊勢遺跡と大和の唐古・鍵遺跡は、弥生時代末期まで栄え、銅鐸を作り祭祀に行っていた。そして古墳時代の到来と共に急激に廃れて行ったという点で共通しています。 それはきっと、古墳時代に入って三輪山山麓に新しく出現したクニ(纏向遺跡)に吸収・集約されて行ったと考えるのが自然でしょう。 纏向遺跡からは銅鐸の破片が発掘されています。 銅鐸は火で焼いた後でなければ叩いても壊れませんから、銅鐸を壊す祭祀が行なわれたのかもしれません。 弥生時代から古墳時代への変遷は、銅鐸から鏡への祭祀変更を意味しています。 風の神から太陽の神です。 それは、青銅器から鉄器への変更も意味しているようです。 大神神社の南側の初瀬川付近には「金屋」という地名が残っています。 この金屋とは、製鉄など精錬に係わる地名です。 私はこれまで、近江にクニの規模を持つ遺跡があるということを知りませんでした。 近江は伝承では、継体天皇の出身地であったり、神功皇后の息長氏の本拠地であったりと、古代史的にも注目されてよい地域なのですが、大和に比べるとほとんど無視されているような状態です。 もしかすると、邪馬台国の女王卑弥呼は近江出身かもしれません。また邪馬台国自体が近江にあったのかもしれません。 私たちは、飛鳥時代以前の正確な日本の古代史を知りません。 中国の歴史書に倭の五王の名が載っていますが、その五王が誰に当るのかさへ推測に過ぎないのです。 封印された日本の古代史を解く鍵は、もしかすると瀬織津姫にあるのかもしれないと思うこともあります。 瀬織津姫の真実は、現在公表され認識されている何倍も奥深く、私たちにとって衝撃的なことかもしれません。 ようやく瀬織津姫が一般の人たちにも知られるようになってきたことは、瀬織津姫の真実と日本の古代史の真実を、私たちが受け入れる準備が整いつつあることを示しているのかもしれません。 ありがとうございます☆ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
March 18, 2012 04:46:50 PM
|