地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく
「ブッダは、なぜ子を捨てたか」
山折哲雄 2006
この衝撃的な(あるいは激情的な)タイトルに目を引き寄せられるが、著者が山折哲雄と聞くと、なるほどと、ほぼ内容が想像できてしまうのは不思議なことだ。
当代きっての仏教関係のベストセラー作家であり、有名な仏教学者のあの温和なめがね顔で、淡々とした口調で語られると、ますますなるほど、と納得してしまうところがある。
しかし、ちょっと待てよ、という気分になった。「ブッタが、どこにもいないから」この本を書いたということだけど、さて、本当だろうか。彼にとっては、まぁそのとおりなのだけど、果たして、どうだろう、と疑問に思う。
著者は、本書によれば、1972年に日本山妙法寺の藤井日達上人の「わが非暴力」の出版にかかわっているという。なるほど、そういう縁があったか。本著においてはそのいきさつも語り、また、ガンジーについても触れる。
インドにおける現在の仏教の動きを紹介しつつ、アンベートガルの新仏教運動にも触れる。しかしである。ここまでふれておいて佐々井秀嶺に触れることはない。
インドの新仏教徒は1千万人だと書いている。しかしながら、別な情報では1億人と言われている。これは確たる情報源がなければそれはしかたないことだが、著者は、この新仏教徒の動きに対しては、微妙な過小評価的反応をしめしている。
著者は、日本における当代きっての仏教関連の作家ではあるが、やはり日本の仏教、というところをはなれていない。そして、「ブッタ」の悟りという時の、その悟りも、いままでの日本の悟りの概念を踏襲していると思う。
「ブッタ」をレポートするのではなく、まず自らが「ブッタ」になる、という視点なしには、本来の「ブッタ」などレポートしようがない。 「ブッタが、どこにもいないから」この本を書いたということだけど、いないところを探しても「ブッタ」は見つかるはずはないのである。
「ブッタ」はどこにいるのか。それは自らの心の中にしかいないのである。そして自ら「ブッタ」に成る以外、「ブッタ」と出会いようがないのである。著者は敬虔な現代日本における仏教徒ではあるけれど、この本で彼が探しているのは決して「ブッタ」ではない。
アンベードカル大菩薩や佐々井秀嶺上人が、いわゆる学者達のものする教学からはみでた世界を生きているとすれば、それは、彼らのほうがより「ブッタ」に近いからである。この本で、著者は、「ブッタは、何故」と書いているが、本当は、「仏陀は、何故」と書きたかっただろうし、「お釈迦様は、何故」と書きかたかったのではないだろうか。
「ブッタ」というものは、もっと直感的なものだと思う。ブッタの子、学習第一ラーフラについても述べている。さまざまな読者に、仏教との縁を結ぶ機会を作っているのは素晴らしいことだと思う。しかし、賢明な読者は、この本を通り越して、より自らが「ブッタ」になる道に至らんことを願いたい。
<再読>へつづく