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カテゴリ:レムリア
「霊的人間」 魂のアルケオロジー
鎌田東二 2006/6 作品社 1992年、私は当時、京都でMンジュが発行する「ツクヨミ」誌上において、「湧き出ずるロータススートラ」という短文を書かせてもらい、その中に次のように書いている。 高まるエソテリックな雰囲気の中で、ミステリーワークとして、「私」は誰か、なぜ私はOshoムーブメントに関わるのか瞑想して行くと、直感としていくつかのことがおぼろげながら解って来た。最初は断片的な夢やビジョンや思い込みの羅列だったが、客観的な裏付けはないものの自分の転生歴に整合性を持たせると、次のような概略のストーリーが出来上がる。 かつて私はムー大陸に生まれかがり火を祭る若いミコになったが、ひたすら踊り祈るだけで、ムーの情念の文明が地震や噴火の「火」のエネルギーで滅びつつあることを知らなかった。 やがてレムリア大陸に転生して都市計画者となった私は、球体を基礎とする理論を打ち立て功名を得たが、心の何処かに隙間を感じていた。晩年になって山中のコミューンに隠棲して土と汗にまみれながらも満たされた人生を送り、陰と陽の融合の文化を理解したものの、箱庭的平安に終始し「小乗」のカルマを残してしまった。 転じてアトランティス大陸の科学的探究者となった私は、打ち続く自然の異常現象に危機感を持ち、海岸の岸壁にあった石窟寺院で仲間達と瞑想して文明の危機を救おうとしたが、すでに時期遅く知性に偏った文明は「水」によって滅びていく運命にあった。押し寄せて来た大きな津波から海岸を走って避難中、砂に足を取られてころび波に呑み込まれた。溺れて気を失い始めた時、忽然とムーよりやって来た一体の龍が天空に現われ、こんな約束をしたのだった。 「ムーもアトランティスも偏った文明で滅びてしまった。いつか遠い未来にあなたはまた同じ様に文明の危機の時代に生を受けるだろう。再びその日が巡って来たら私はその時にこそ必ず来たって最大限の助力をするだろう。しかし、今回はこのまま行きなさい。」 やがて700年前のチベットでは、Oshoの過去生である菩薩が未来にもう一度だけ転生することを約束し106才で入滅するとき、私は熱心な信者家族に生れ16歳の少年になっていた。菩薩の死を悲しみながら、まだ十分に彼の教えを吸収理解していなかった私は、彼はやがて約束どおり最後の肉体を持ったならば、仲間達とともにいち早く駆け付けようと心に誓うのだった。 そして1931年ネイティブ・アメリカンとして生れた私は、インドに転生していたOshoが最後の光明を得て、惑星全体に約束のヴァイブレーションが起きた53年、そのショックで思いも寄らぬ事故に巻き込まれ、数十日の間意識を失い冥府をさ迷うことになった。無意識の中でもう一度生き返ることも、このまま死ぬことも選択する自由が残されていたが、事の次第を理解した私の魂は、もう一度転生して彼の元に駆けつけることにしたのであった。 この文章については、もっと細かく表現できるし、また、一部若干の変更もなしとはしない。もともと細切れのビジョンの合体なのだから、どれが正解ということも実はない。しかし、総じて当時から現在までに大きな変更はない。そして、このブログは、あの「湧き出るロータス・スートラ」の続編となるべき位置にあるのである。 この鎌田東二「霊的人間」は、ヘルマン・ヘッセから始まる。そして1946年にノーベル文学賞を受けたヘッセ作「ガラス玉演戯」に言及する。 「ガラス玉演技」とは音楽と数学と瞑想と演劇的遊戯とを融合した総合芸術である。しかし、それがどのような形態であるかはっきりとはしない。 主人公ヨーゼフ・クネヒトは魂の声に導かれるようにして不思議な芸術家「ガラス玉演戯名人」になってゆく。彼は少年期に「音楽名人」を通して芸術の世界に入っていく「召命」を体験する。ヨーゼフは音楽名人の弾くフーガを聴いているうちに、「自分と自分の一生と世界全体が音楽の精神に導かれ、整えられ、解きあかされているのを見た」。そしてこの後、「家を出ると、町と世界が(中略)、魔法にかかっているように見えた」のである。p34 私はこの小説を1978年にインドで読んだ。その後に、レムリアのビジョンを見たから、この小説に影響を受けていることは考えられる。しかし、それらの経緯は、私にとってはあまり問題にはならない。「球体を基礎とする理論」とは、どうやら「ガラス玉演技」に通じる何かである。しかしながら、これは半分だ。これらは完成されたあと、捨てられる必要がある。詳細については、いずれまとめることもあるだろう。 「チベットの白き道」で冬季のチベット高原を自転車で走破した安東浩正は書いている。 ---君の選んだ道は荒野へと続くだろう。決して楽な道ではない。だけれども、それが君の運命なのだ。 さあ行こう。僕はいにしえの道に向けて、ギャンツェに向けて、ペダルをこぎ始めた。ヘッセがその道を向こうでぼくを待っているような気がした。p73 「ヘッセがその道を向こうでぼくを待っているような気がした。」この一言にゾクゾクとする自分がいる。 この本で鎌田はヘッセの他に、ウィリアム・ブレイク、ゲーテ、本居宣長、上田秋成、平田篤胤、稲垣足穂、ラフカディオ・ハーンとともに、W.B.イエイツについても触れている。この人物については、ブラバッキーや神智学、あるいはブルワー・リットンとの関わりの中で何度もでてくる名前だ。イエイツには「神秘の薔薇」という小説があるらしい。いずれじっくり追って見よう。日本的霊性については、このままではこのブログはなかなか到達しないが、出口王仁三郎などとの絡みがあって、いつその世界に突入するかわかったものではない。この点についても鎌田はさまざまなヒントをこの本に隠している。 1991年のスピリット・オブ・プレイス・シンポジウムの時、空き時間に、おおえまさのりはダダイスト糸井貫二を訪ねていたが、鎌田は金華山を訪ねた。そんなことを思い出していた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.02.11 17:55:27
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