<1>よりつづく
「私が愛した本」 <2>
OSHO /スワミ・パリトーショ 1992/12 和尚エンタープライズ・ジャパン 単行本 269p
この本、「狂人ノート」 、「ゴールデン・チャイルドフッド」とともにOshoの歯科椅子三部作とされている。他のブッタ・ホールやチャンツ・オードトリアムにおける講話とは、かなり雰囲気が違った本だが、また、そこがまた興味深いところでもある。ある意味、言いたい放題という感じもする。木田元が自らが哲学者となる原点とし、やがては自分の専門としたハイデガーについて、Oshoだとこうなる。
マルチン・ハイデガー「存在と時間」だ。私はこの男が嫌いだ。彼は共産主義者であるだけでなく、ファシストでもある。アドルフ・ヒトラーの信奉者だ。ドイツ人というのは何をしでかすか分ったものではない。彼はあんなにも才能のある人間、天才でありながら、あの知恵遅れの低能、アドルフ・ヒトラーを支持していたとは。ただただ驚くほかはない。だがその本はいい---またもや私の弟子にとってではなく、その狂気が進んだ者たちのためにだ。本当に上級の気違いなら「存在と時間」を読むといい。これは完全に理解不能だ。金槌のように人の頭を叩く。だがその中にはいくつかのすばらしい一瞥がある。たしかに金槌で叩かれれば昼日中でも星が見えてくるわけだ。この本はちょうどそんなふうで、中に二、三の星がある。
この本は完成していない。マルティン・ハイデガーは、第二部を書くと約束していた。彼はその生涯を通じて、何度も何度も約束し続けた。だが、ありがたいことに、第二部は書いていない・・・自分で何を書いたか自分でも理解できなかったのだと思うね。それでは続けようもないわけだ。どうやって第二部を書く? しかも第二部は彼の哲学の頂点になるはずだった。それを書いて物笑いの種になったりしなくてよかった。彼は第二部を書かずに死んだ。だが第一部でも上級の狂人たちのためにはなる。そういう連中はたくさんいる。だから私はこういう本について話し、リストに加えている。p139
また、「ニューエイジについてのキリスト教的考察」や「知の歴史」を読み進んでいて気になったアウグスティヌスについては、またまたこうなる。
聖アウグスティヌスの「告白」だ。アウグスティヌスは、恐れることなく自分の自叙伝を書いた最初の人だ。だが彼はもう一方の極端に走った。私がガンジーを評価するのはそのためだ。「告白」の中でアウグスティヌスの告白は度を越している。---ただただ告白することがうれしいばかりに、彼は自分が一度も犯したことのない罪まで告白している。何という楽しみだ! 世界に向かってそう言うのが嬉しいばかりに、「私が犯したことのない罪はない。私は人の犯しうるあらゆる罪を犯した」とは!
これは本当ではない。どんな人間にもあらゆる罪を犯すことはできない。どんな人間にも、神自身さえ、そんな能力はない。神など言うのも及ばない・・・・当の悪魔でさえ、アウグスティヌスが告白しているように悪を楽しむにはどうしたらいいのか、と考え始めるに違いない。アウグスティヌスは誇張している。
誇張は、聖者の共通の病のひとつだ。彼らはあらゆることを、自分の罪まで誇張する。だから当然、美徳も誇張できるようになるわけだ。それが物語の第二部だ。自分の罪を誇張すれば、その背景の前では確かにささいな美徳まで、非常に大きく、非常に明るく・・・暗雲の中の稲妻のように見えるはずだ。その暗雲が、稲妻を見せるのにこの上もなく役に立つ。罪なくして人は聖者になることはできない・・・罪が大きければ大きいほど、聖者は偉大になる・・・単純な算術だ!
だがそれでも私はこの本を含める。それはこれが美しく書かれているからだ。私はそういう人間だ、ちゃんと記録しておいてもらいたい。たとえ嘘でも、それを美しく言えば、私はその美ゆえに評価する・・・嘘だからといって排除はしない。嘘であろうとなかろうと、そんなことを誰が気にする? その美しさが、それを楽しむ価値のあるものに、評価する価値のあるものにする。
「告白」は、嘘の傑作だ。それは嘘でいっぱいだ。だがこの男は、自分の仕事をほぼ完璧にやった。私がほぼというのは、誰かがその仕事をもっとうまくやる可能性は常に存在するからだ。だが彼はそれを99パーセント完璧にやった。他の誰かに、もうあまり余地は残されていない。たしかに彼の後にもたくさんの者が試みた。レフ・トルストイのような偉大な人間さえいた。私は彼の「復活」と「戦争と平和」については話した。彼は、生涯を通じてずっと、自分の告白を書こうとしていた。彼はそれには成功できなかった。どうやらトルストイのような人間でさえアウグスティヌスを凌駕することはできなかったようだ。だが、トルストイよ、どうかフリーク・アウトしないでもらいたい、私はあなたを、私のリストにのせるつもりだから。p215
<3>につづく