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地球人スピリット・ジャーナル1.0

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2009年4月1日

地球人スピリット
・ジャーナル2.0


へ引越しました。

2008.01.27
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カテゴリ:OSHOmmp/gnu/agarta0.0.2

<7>よりつづく

「私が愛した本」 OSHO <8>


 ルティン・ブーバーが入っていなかったら、私は自分が許せなかっただろう。その償いに私は彼の本を二冊入れる。一冊は「ハシディズムの話」だ。鈴木大拙が禅に対して行ったことを、ブーバーはハシディズムに対して行った。ふたりとも道を求める者のために途方もない貢献をした。鈴木は光明を得たが、残念ながら、ブーバーは得ることができなかった。
 ブーバーは偉大な著述家であり、哲学者であり、思索家だった。だがこういうものはすべておもちゃにすぎない。それでも、私は彼の名前を入れることでこの人に敬意を払う。何しろ、彼がいなければ、世界は「ハシッド」という言葉すら知らなかったに違いない。
p164

 「ハシディズムの話」は、真実の探求者すべてが読むべき本だ。これらの話、その小さな物語にはある種の香りがある。それは禅とも違い、またスーフィズムとも違っている。その味わいは独特だ。どこから借りてきたものでも、何から移したものでもない。ハシッドは、笑いと踊りを愛する。その宗教は禁欲の宗教ではなく、祝祭の宗教だ。私の仲間とハシッドの間には橋があると思うのはそのためだ。p165

 ルティン・ブーバーの二番目の本「我と汝」は、彼の最も有名な著作だ。この本で、彼にノーベル賞が贈られた。申し訳ないが、私はこの本にはまったく同意しない。私がこの本を挙げたのは、これが芸術的に大変な豊かさと誠実さを持って書かれた美しい作品だからだ。だがそれでもこの中には魂がない。なぜなら、ブーバーその人の中に魂がないからだ。どうやってあの貧しい人間が、自分の本、あの傑作に魂を持ち込むことなどできよう?
 「我と汝」は、ユダヤ人によって非常に崇められている。彼らはそれが自分たちの宗教を代表していると思っているからだ。あれは、ユダヤ教にしろヒンドゥ今日にしろ、いかなる宗教も代表してはいない。あれはただ、マルティン・ブーバーという人間の無知を表わしているだけだ。だがその人間は確かに芸術家だ。偉大な天才だ。天才は、自分が何ひとつ知らないことを書いても、それでも傑作を生み出すことができる。
 「我と汝」は、根本的に間違っている。ブーバーが、それを人と神との対話だと言っているからだ。「我と汝」・・・・・・? ナンセンスだ! 人間と神の間にどんな対話もありえない。そこにありうるのは、沈黙だけだ。対話? 神に何を話そうというのか? ドルの切り下げについてかね? それともアヤトーラ・ルホーラー・ホメイニについてか? 神を相手に何について対話しようというのか? 話せることなど何もない。人はただ畏敬の念に打たれるのみ・・・・沈黙あるのみだ。
p166

 の沈黙には「我」もなければ「汝」もない。それゆえ私は本だけではなく、タイトルにも反駁する。「我と汝」・・・・? ということは、人がまだ分離したままだということだ。そうではない。それは蓮の葉からすべり落ちて海に入る一滴のしずくのようなものだ。そのしずくは消える。あるいは別の言い方をするなら、それは海になる。だがそこには我と汝はいない。あるいはそこにいるのは、我のみ、または汝のみだ。しかし、我がいないのに、汝などありえない。それは意味を持ち得ない。汝がなければ、我もない。だから実は、あるのは沈黙のみだ・・・・この休止・・・・私という存在のこの一瞬の沈黙の方がマルチィン・ブーバーが「我と汝」の中で言おうとし、そして失敗したことよりずっと多くのことを語る。しかし、たとえ失敗であっても、あれは傑作だ。p167

 ブーバーは「西洋哲学」の中で取り上げられるべき存在なのかどうかは、私にはわからない。便宜上、まずはこういう形でリストアップしておく。また彼はノーベル賞作家ということだが、思えばヘッセもそうだった。いちど、ノーベル文学賞作家を追っかけてみる、というのも面白いか、と、ふとまたよそへ心が動いている私がいる。

 忘れてしまうといけないので、前回書いたところで、思ったことをメモしておく。マルクスや資本論が嫌いでも、「共産党宣言」のそのスタイルが好きだというOsho。鎖を断ち切り、ただ在れと、Oshoはいう。勝ち取れとか団結せよ、とは言わない。むしろ逆だと。つまり、共産主義の流動過程の延長戦上に、マルチチュード・ネットワークがあるとするなら、それは「勝ち取ったり」「団結」したりするところには向かってはならないのだ。

 つまり、ネットワークでグローバルにつながったマルチチュードたちは、瞑想にこそあるべきなのだ。あるいは瞑想へと向かうよう影響しあうことこそ、よりマルチチュードが今みつけるべき真の自らの姿なのだ。そのことをもっと明確なかたちで、自ら納得したいために、私はネグリがルーツとするところのスピノザへ降りてきているのだった。しかし、まだ、明らかな確証をつかんだ、とは言えない。

<9>につづく






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Last updated  2008.01.27 16:14:13
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