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地球人スピリット・ジャーナル1.0

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2009年4月1日

地球人スピリット
・ジャーナル2.0


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2008.08.29
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カテゴリ:環境心理学


「モンゴル帝国の興亡」
岡田英弘 2001/10 筑摩書房 新書 254p
Vol.2  No.261
★★★☆☆

 
杉山正明の同じタイトルの本があるが、まったく別の本である。正木晃は「モンゴルを知るために」として、この二書を推薦している。杉山はモンゴル史を専門としている。岡田は専門ではないが、モンゴル周辺の歴史にも造指が深い。

 歴史というものの性質がある。歴史は、世界中どこにでもあるというものではない。地中海域と、中国世界に起源があって、そのほかの地方には、それぞれ地中海型か、それとも中国型のコピーしかない。p011

 門外漢の私などが、気まぐれにつかう「歴史」という言葉と、著者がつかうところの「歴史」では、その意味がまるで違っている。


 おなじ歴史ではあっても、地中海では変化を主題とする歴史が、中国では天命の正統に変化がないことを主題とする歴史が書きつづられて、13世紀のモンゴル帝国の時代になった。モンゴル帝国の時代は、世界史のはじまりであった。p013

 つまり、中国型の「歴史」は、その役割の役人を作って、自らの正統性をつづらせるもの。つまり、門外漢の私などから言わせれば、「歴史」とは、もともと「偽史」となる可能性が常にあるものであった、ということになる。勝てば官軍、負ければ賊軍、「歴史」は時代の覇者たちによって書き変えられ続けてきたのだ。

 チンギス・ハーンは生前、その子孫に対して、いずれの宗教をも、特別な重きを置かないこと、各宗教の信者を平等に待遇することを、強く指示した。神をどのような方法で崇拝するかは、神にとって特別の関係のないことであると、チンギス・ハーンは信じていた。その死後、チンギス・ハーンは、アニミズムの最高神の「青い永遠な天」のつぎに位置するようになり、そのオルドは「八つの白いゲル」(八白室)となって、チンギス・ハーン崇拝の祭壇として機能するようになった。

 モンゴル帝国は、別段にチベット仏教のみを保護したのではなかったようだ。また、思えば、たしかにジンギスカン自身も神格化されてしまったようだが、さて、その「宗教性」はいかなる高みへと飛翔したのかは、いまのところ定かではない。最近、大相撲のモンゴル巡業のニュースが流れているが、そういえば、あの「サーカス小屋」といわれる巡業会場も「八角」であったかもしれない。

 フビライ・ハーンは1260年に即位すると、自分の侍僧であるチベット仏教のサキャ派の教主パクパに国師の称号と玉印を授け、新しいモンゴル文字を作ることを命じた。パクパが作った文字は、横書きのチベット文字のアルファベットを改良して、縦書きとしたものであった。p075

 この時点では、チベット文化はこのような形でモンゴルへ影響をあたえていたということだ。

 インドを創ったのが、モンゴル人のムガル帝国であり、トルコのもとになったオスマン帝国が、アナトリアのモンゴル駐屯軍が発展したものであり、ロシアがジョチ家の白いオルドの後継者であることは、すでに詳しく述べた。中央アジアのトルコ語を話すイスラム教の国々がやはりジョチ家の後裔であることは言うまでもない。
 こうして、チンギス・ハーンのモンゴル帝国は、東は韓半島・中国から、西は地中海に至るまでの、ほとんどすべての国々を生み出した。まことにチンギス・ハーンは世界を創ったのである。
p138

 創ったばかりではなく、「モンゴル帝国は、いまでも生き残っている」p011と岡田は言うのだが、地中海型でもなく、中国型でもない、いわゆる科学的な根拠のある人類創世以来の、客観的で中立的な「歴史」が作られるまでには、まだまだ時間がかかりそうだ。自由に時間的経過を読みとることは可能だ、という意味では、「モンゴル帝国は、いまでも生き残っている」ということもできるのであろうが。

 この講和の結果、明は軍事費の負担を軽減されたし、モンゴル側でも、正常な貿易のチャンネルが安定したために経済が繁栄し、文化の水準が飛躍的に高まった。そのひとつの結果は、チベット仏教文化の流入であった。すでにフト・ホトには、多くの宗派のチベット僧が集まって、アルタン・ハーンの庇護を受けていたが、当時、ラサを中心として発展しつつあったゲルクパ派のデプン寺の住職ソェナムギャツォは、アルタン・ハーンの招請に応じて青海におもむき、1578年、同地においてハーンと会見し、ダライ・ラマの称号を与えられた。これが第三世ダライ・ラマである。p215

 第三世とはいうものの、一世、二世は、死後に贈られたものであり、実質のダライ・ラマ制度はここから始まる。この本においては、その後の歴代ダライ・ラマについても触れている。特に六世、七世などの経緯を読んでいると、現在のダライ・ラマ十四世に限らず、チベットの政治と宗教の中で、チベット仏教が大いに揺れ動いてきたことが容易に想像できる。






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Last updated  2009.11.12 23:36:22
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