|
全て
| 目次
| 2nd ライフ
| ネットワーク社会と未来
| マルチチュード
| アガルタ
| シンギュラリタリアン
| 地球人スピリット
| マーケットプレイス
| ブログ・ジャーナリズム
| OSHOmmp/gnu/agarta0.0.2
| mandala-integral
| レムリア
| スピノザ
| ブッダ達の心理学1.0
| シンギュラリティ
| agarta-david
| アンソロポロジー
| バック・ヤード
| チェロキー
| 環境心理学
| osho@spiritual.earth
| スピリット・オブ・エクスタシー
| 22番目のカテゴリー
テーマ:旅のあれこれ(9982)
カテゴリ:環境心理学
歴史というものの性質がある。歴史は、世界中どこにでもあるというものではない。地中海域と、中国世界に起源があって、そのほかの地方には、それぞれ地中海型か、それとも中国型のコピーしかない。p011 つまり、中国型の「歴史」は、その役割の役人を作って、自らの正統性をつづらせるもの。つまり、門外漢の私などから言わせれば、「歴史」とは、もともと「偽史」となる可能性が常にあるものであった、ということになる。勝てば官軍、負ければ賊軍、「歴史」は時代の覇者たちによって書き変えられ続けてきたのだ。 チンギス・ハーンは生前、その子孫に対して、いずれの宗教をも、特別な重きを置かないこと、各宗教の信者を平等に待遇することを、強く指示した。神をどのような方法で崇拝するかは、神にとって特別の関係のないことであると、チンギス・ハーンは信じていた。その死後、チンギス・ハーンは、アニミズムの最高神の「青い永遠な天」のつぎに位置するようになり、そのオルドは「八つの白いゲル」(八白室)となって、チンギス・ハーン崇拝の祭壇として機能するようになった。 モンゴル帝国は、別段にチベット仏教のみを保護したのではなかったようだ。また、思えば、たしかにジンギスカン自身も神格化されてしまったようだが、さて、その「宗教性」はいかなる高みへと飛翔したのかは、いまのところ定かではない。最近、大相撲のモンゴル巡業のニュースが流れているが、そういえば、あの「サーカス小屋」といわれる巡業会場も「八角」であったかもしれない。 フビライ・ハーンは1260年に即位すると、自分の侍僧であるチベット仏教のサキャ派の教主パクパに国師の称号と玉印を授け、新しいモンゴル文字を作ることを命じた。パクパが作った文字は、横書きのチベット文字のアルファベットを改良して、縦書きとしたものであった。p075 この時点では、チベット文化はこのような形でモンゴルへ影響をあたえていたということだ。 インドを創ったのが、モンゴル人のムガル帝国であり、トルコのもとになったオスマン帝国が、アナトリアのモンゴル駐屯軍が発展したものであり、ロシアがジョチ家の白いオルドの後継者であることは、すでに詳しく述べた。中央アジアのトルコ語を話すイスラム教の国々がやはりジョチ家の後裔であることは言うまでもない。 創ったばかりではなく、「モンゴル帝国は、いまでも生き残っている」p011と岡田は言うのだが、地中海型でもなく、中国型でもない、いわゆる科学的な根拠のある人類創世以来の、客観的で中立的な「歴史」が作られるまでには、まだまだ時間がかかりそうだ。自由に時間的経過を読みとることは可能だ、という意味では、「モンゴル帝国は、いまでも生き残っている」ということもできるのであろうが。 この講和の結果、明は軍事費の負担を軽減されたし、モンゴル側でも、正常な貿易のチャンネルが安定したために経済が繁栄し、文化の水準が飛躍的に高まった。そのひとつの結果は、チベット仏教文化の流入であった。すでにフト・ホトには、多くの宗派のチベット僧が集まって、アルタン・ハーンの庇護を受けていたが、当時、ラサを中心として発展しつつあったゲルクパ派のデプン寺の住職ソェナムギャツォは、アルタン・ハーンの招請に応じて青海におもむき、1578年、同地においてハーンと会見し、ダライ・ラマの称号を与えられた。これが第三世ダライ・ラマである。p215 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.11.12 23:36:22
コメント(0) | コメントを書く
[環境心理学] カテゴリの最新記事
|
|