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カテゴリ:agarta-david
誰もがフランクルが体験したような強制収容所の生活を覗くことができるわけでもなく、また精神科医として他者の内面と付き合うことができるわけでもない。しかし、そのような極限状態にはなかったとしても、人間として自らの死と直面し、他者の苦悩に満ちた体験と出会うことは、ほとんどだれにでもあることである。 そして、本書のタイトルのように「それでも人生にイエスと言う」という答えは、ひとつの悟りの体験から導き出せる結果であるとも言える。人生は生きる価値があるのか、と問うよりも、自ら価値ある人生をどう生きるのか、と問うことの方が先決であり、本質的である。 自分が大病して、死の予感を持ったとき、ひとつの諦観として、もう死んでいいや、と思ったことがある。しかし、高熱がつづく病状のなかで悪夢に襲われたとき、その悪夢から必至で逃れようとする自分がいた。つまり、自分の表面的な考えでは、もう死んでもいいや、とちょっと分かったようなことを言ったとしても、深いところの自分は、やはり生きたいと思っているのだ、と痛感した。 目は前を見るようにできているし、足は前に歩く方が便利にできている。後ろを見るにはいちいち振り返る必要があるし、後ろ向きにあるくことは、非常に不便だ。人間は前を見て、前に歩くようにできている。その時の自分の結論はそのようなものだった。 数年前、私自身がそれまで行われてきた治療法が効を奏さないような重度の睡眠薬服毒の症例でも、まだ患者を救えるような処置法を仕上げようと苦心していました。そのとき、同僚のあいだで、私にあることを注意しようという声が大きくなりました。自殺を決断したことが人間としてよくわかるような人たちを、人生にもどす、むりやり人生に引きもどす権利は私にはないというのです(当時、ある集団全体を脅かすような異常な状況に直面して、自殺が流行していました)。私がしているのは、運命をもてあそぶことだというのです。 立場の違い、状況の違い、文脈の違いはたくさんあるが、私はこのあたりを読んでいて、当ブログでもすこしづつ俎上にあげようとしている「具体的な社会構想」へのつながりを考えていた。とくに安楽死の問題については、簡単には着手できない深い問題がある。 玉川信明のまとめによれば、「Oshoのモデル・コミューン構想」の中の大きな見出しは次のようなものだ。 産児制限の必要 安楽死の肯定 「OSHOの超宗教的世界」p259~267 現在地球上の人口は60億とも70億とも言われている。日本は少子化社会は常識的となり人口減少に転じているが、地球全体を見れば、人口の爆発的増加は止まらない。産めよ増やせよ地に満てよ、という人口増加礼賛一辺倒では、地球上の問題はますます困難かすることはわかっているが、さて、「産児制限」という政策も正しい、と断言できるものではない。中国のように一人っ子政策を取ってもまだまだ人口を増えているのは、単に家族計画の失敗の結論の合計だけではないように思われる。 しかしながらOshoは産児制限は必要であると明言している。そして、生まれた子供には、教育として瞑想のカリキュラムを与えよ、と提言する。愛の教育はたしかにあるのだが、瞑想の教育というものはかならず一般的なものではない。他の文脈で彼が語ったところでは、瞑想とは「死への準備」である。つまり、ここで言われているのは、現在の死生観ではなく、なにかあたらしい別な死生観が必要だということになる。 「反密教学」の津田真一は、檀家と一緒にインドのカルカッタを旅した時にバスの中からみた一シーンに感動したという。道端にひとつの死体があった。ちらっと一瞥しただけから正確ではないが、しかし体液が流れるほどに、その肉体は損傷していた。たしかにインドではこのような風景は、なくもない。私自身もベナレスのガードで、道端に倒れてしまった肉体を目撃したことがある。 しかし、津田真一が衝撃を受けたのは、その死体についてではない。その死体の脇を、複数の女学生が雑談しながら楽しそうに通り過ぎていった、というシーンだった。日本ではほとんどありえない光景である。だれかが交差点で倒れている。しかも、すでに息が絶えていそうだ。そんな場面に出くわせば、どの町にあろうと、長時間放置されているはずがない。ましてや、その脇を楽しそうに女学生が通り過ぎることはないだろう。 津田は、そのことを持ってインドの倫理を問うてるのではない。彼の受けた衝撃は、むしろ、このような死生観があってもいいのではなかったか、という痛烈な価値観の逆転だった。生が当たり前に存在しているように、死も当たり前に存在している。いつかは死はやってくるものであり、いつも死は隣り合わせのものだ。とりたてて騒ぐほどのことではないのではないか。 人生に思い意味を与えているのは、この世での人生が一回きりだということ、私たちの生涯が取り返しのつかないものであること、人生を満ち足りたものにする行為も、人生をまとうしない行為もすべてやりなおしがきかないということにほかならないのです。p49「一回きりの人生の重み」 まったく違った文脈で語られている数冊の本の、ほんの数行だけを抜き書きだけして比較することは、厳につつしまなければならない。どちらが正しいとか、どちらが善であるとかは、ここでは判断することはできない。しかし、たとえばトランスパーソナル心理学などの、さらに言えばグロフなどの膨大な体験的研究の結果、21世紀に生きる現代人は、その死生観のなかに、「輪廻転生」という考え方を入れることが可能になってきているのではないか。すくなくとも、単に紋切型に「一回きりの人生」と断言できるのだろうか。 けれども、人生に重みを与えているのは、ひとりひとりの人生が一回きりだということだけではありません。一日一日、一時間一時間、一瞬一瞬が一回きりだということも、人生におそろしくもすばらしい責任の重みを負わせているのです。その一回きりの要求が実現されなかった、いずれにしても実現されなかった時間は、失われたのです。「永遠に」失われたのです。p50 フランクルのこのような文脈におけるものであるなら、一瞬一瞬が一回きりであるように、ひとつひとつの人生も、一回きりの人生、と言ってしまうことに問題はなにもない。この人生をよりよく生きようとするのは当然のことだ。しかし、そのことと輪廻転生があるかないかは、直接的に結びつく論議ではない。 片や、ホスピスにおける人間として尊厳ある死、という問題もある。片や、無理心中や無差別殺人などの悲観的暴力の多発という問題もある。地球上にはさまざまな死生観があり、将来に向って、統一される、ということはあり得ないだろう。であるがゆえにNew Man : One Earth One Humanity という当ブログのサブテーマは、あまりにおおざっぱな楽観論過ぎると思う。しかしながら、犯罪者や安楽死などなどまでについてのOshoからの「解決策」を、ひとつの具体案として検討はしてみる価値はあるだろう、と思っている。 というのも、もし当ブログがこのまま「21th Category」としてそのテーマを「ゾルバ・ザ・ブッダと具体的社会構想」を選ぶとすれば、当然のように、「大いなる挑戦---黄金の未来」が話題に上らざるを得ないと思っているからだ。この講話の大部分は、1987年のプーナで行われたものである。印刷物がでるまえに、この講話の録音テープが、知人サニヤシンによって、日本のトランスパーソナルな人々に送られた。例えば、吉福伸逸とかプラブッダとか。しかし、日本からかえってきたのは、強烈な反撃のカウンターパンチだった。いわくグルイズム、いわくナチと酷似などなど。 当時、これらのレクチャー一部ををプーナで聞いており、日本とのやりとりの経緯を傍でみていた立場としては、この問題はいまだに未解決なままである。たしかに、Oshoの提言はそのままストレートに容易に理解できるものではない。しかし、一部の提案に、現在だけの知性をもって直ちに反撃しなくてはならないものなのかどうか、私は即断できなかった。そして、即断しなかった自分の判断は正しかったと今も思っている。すくなくとも、その経過を見ようとしてきた。 「この地上においていかに生きるか?」というテーマに対して、フランクル心理学が指し示す提案は大きい。単なる人生論議にもなりかねない平素な語り口で、その稀有な体験や知性からあふれてくる言葉は重い。そして、この地球上の人生をどういきようとしているのか、を再考するよいチャンスとなる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.12.08 18:35:17
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