名目上は本土に復帰したとは言いながら、一向に米軍基地が減らない沖縄について、長年沖縄を取材してきた記者は、6日の朝日新聞に次のように書いている;
自分の生まれた日には何があったのかと、中学生のころ街の図書館で調べたことがある。古い新聞の1面には「沖縄返還協定、きょう調印」と書かれていた。米国の統治下から日本の施政権下へ。沖縄の復帰が決まった日だ。
時が流れ、私の頭には白いものが交じるようになった。40年とは、そういう月日を意味する。なのに沖縄と本土は、近づくどころか離れていくのではないか。それが私たち取材班の問題意識だった。そして取材を進めるほどに「差別」という言葉と向き合わざるを得なくなった。
10年前も沖縄にいた。ちゅらさんブームの少し後だ。オピニオン面などに登場した知念ウシさんは当時から「そんなに沖縄が好きなら、日本に米軍基地を持って帰れば?」と本土に言っていた。だが、あくまでも少数派だった。
今は違う。訴えに共鳴する層がある。記事で紹介した「沖縄は日本の植民地だ」といった先鋭的な考えが主流なわけではない。だが、とがった氷山の水面下には、それを支える大きな塊がある。世論調査で「米軍基地が減らないのは本土による差別か」との問いに50%の県民がそうだと答えたのが証しだ。
差別という言葉は強烈だ。人と人の関係を「差別する側」と「される側」に分ける。協議ではなく対立の世界だ。だから「そこまでは言いたくない」という沖縄の人たちも少なくない。しかし、それでも、もう基地をめぐるこの状態は他に言いようがない、と多くが口にし始めた。
正直に言えば、こういう声からは逃げ出したくなる時がある。沖縄ナショナリズムの高まりなのだ。ヤマトンチュである私は「基地を押しつける側」に立たされ、引き裂かれる。「沖縄のこころに共感」などという安易な寄り添いは許されない。求められているのは同情ではなく、具体的に基地を動かすことだ。
沖縄にいても、こうなのだ。本土と沖縄の関係を「人間と豚」に例えた劇の話などを連載「日米琉40年」で取り上げた。「決めつけだ」と本土の反発を招き、溝がさらに深まるのではと危ぶんだ。しかし、現実を見ることからしか解決の道は始まらない。
劇の話が載った翌日。沖縄が配備に反対する米新型輸送機オスプレイの本土への一時駐機を、政府が断念したという記事が載った。候補地に反対されたから、沖縄へ直接持ってくるのだという。これが差別でなくて何なのだろう。
2012年6月6日 朝日新聞デジタル 「記者有論-沖縄復帰40年 差別にいらだつ不惑同士」から引用
東京の政府は、沖縄の本土復帰の後、米軍基地を多く抱えていることに配慮して特別な予算を支給してきたのであったが、これはあくまでも過渡的な処置であって、完璧な解決策などではなかったのである。現在の政府は、そのことを認識しているかどうかが問題である。ただ前例に則って、毎年特別予算を出していればいいなどという考えでは、この先やっては行けない。過渡的な処置として特別予算を出す一方で、アメリカと交渉して少しずつ基地を撤去させる努力もしなければならなかったのだ。もしこの先も、東京の政府がそういう努力をしないのであれば、沖縄は東京政権を当てにしないで、独自に外交権を確立して、直接アメリカ政府と基地撤去の交渉をするべきなのかも知れない。