カテゴリ:読書のココロ(エッセイ・その他)
「暮らしを楽にすればするほどエデンからは遠くなる」
著者は、この本のあとがきの中で そう書いている。 自然や人間を、鋭く真っ直ぐに見つめたエッセイ。 環境としての『自然』や 生き方としての『自然』から はるか遠くに離れてしまった現代へ。 さまざまな雑学やエピソードを交えながら 日常生活の中での著者の自然観が 軽めのタッチで描かれている。 (※ 抜粋箇所は堅めの文章。スミマセン(笑)) -*-*-*-*-*-*-*-*-*- われわれが普段見慣れているのは、都市の中にせよ農村にせよ、 人間によって手なずけられた風景ばかりだ。 あるいは人間を甘やかす風景と言ってもいい。 そういうところだけを見ていると、 世界全体が人間のために用意されているという錯覚に陥る。 われわれはほんの隅っこを借りて住んでいるにすぎないのに、 地球の主人であるような気持ちになる。 沙漠の風景はそういう勝手な幻想を消して、 世界の本当の姿を再確認するための視覚装置だ。 人の手に由来するものが何もない光景は、 意識の深いところに沈んでゆっくりと効果を発揮する。 本当ならば、人はみな一年に一度は沙漠に行って、 ぼんやりと砂を眺めて過ごすべきなのだ。 そこで退屈を感じるとすれば、それこそ正しい退屈ではないか。 ------- 農耕はこの問題に対する相当に強力な解決策だったはずだが、 しかし、人口の増えかたには限りがなかった。 食べ物はいくらあっても足りるということがない。 最近では技術の進歩に頼って、 具体的に言えば石油と化学物質をたくさん使うことによって、 量の確保を図るようになった。 ありがたいことに、われわれは今のところは飢えから解放されている。 しかし、今度は味が問題になる。 量産された品は自然にできたものと違って、無味なのだ。 この言い回しは説明が必要だろう。 食べ物には、この世界のうちの 人間自身に所属しない領域から来たものとしての意義があった。 食べ物は異質である。 それを体内に入れて同化することで人の身体は代謝を行ってきた。 単にものとしてだけでなく、 そうすることで外界と自分たちの交流をはかってきた。 世界との交流の手段であり、 精神というものが肉体=物質の内に宿った存在であることの保証だった。 食べ物は肉体の素材であると同時に精神の素材でもあった。 しかし、人間の手の中で技術に頼って作られた人口の食べ物には その異物感がない。 あまりに管理されすぎ、質が整いすぎ、 われわれの感覚に対して本来の食べ物が与えたような衝撃の力を持っていない。 慣れすぎた動物のようなもの。 オオカミとの命がけの勝負だったはずの食べるという行為が、 今ではイヌとのじゃれあいになってしまっている。 そして、人はそれに気付いて、そういう食べ物を無味と感ずる。 野生の酸っぱい小さなリンゴはまずいかもしれないが、 少なくとも無味ではなかった。 ------- ( 絵本『100万回生きたねこ/佐野洋子・著』に触れて) 人はまずこれを愛についての物語だと思う。 それはそれでもちろん正しいが、 ぼくはそれ以上に生と死についての話として傑作だと思った。 生の方がしっかりと充隘していなければ、正しい死はやってこない。 人に飼われているような人生では、ねこだって死にきれない。 そういう生の完成の果てとして死は訪れる。 天寿とか、すべて成しおえてとか、大往生とか、そういうことではなく、 一見して中断でしかない死のように見えながらも やはり生の果実をたっぷりと背負って旅立つ人だっている。 しかし、いずれの場合にも天秤の一方の皿に 生の充実をちゃんと乗せてやらなくては死の重さと釣り合わない。 負けてしまう。 今、人はみな、死というものを 単に生きていることの終わり、断絶、スイッチ・オフだとしか思っていない。 それをただ先に延ばそうとしている。 真剣に考えることをしないでひたすら逃げまわっている。 死そのものを恐れる一方で、その準備は誰もしない。 苦痛に対して、病気に対して、そして死に対して、 人はすっかり臆病になってしまった。 何かが満ちていった結果の、静かな終わりとしての死という図は誰の頭にもなく、 ただ生命の強奪という暴力的なイメージしかない。 テレビのフレームの中で死んでゆく人の九割がそういう死にかたをしている。 あのねこだったらすぐに生き返るにちがいないというような死ばかりだ。 ( 池澤夏樹 『エデンを遠く離れて』より ) -*-*-*-*-*-*-*-*- 【自然】という言葉を辞書で引くと 様々な意味が並んでいる。 1:人間の力を加えない、物事そのままの状態。 2:人間社会と無関係に存在し、人間と対立するこの世の万物。 3:人や物の固有の性格。本性。 4:人間を含めての天地間の万物、またその営み。 1や2の意味のように、 自分以外のものと「対立」する『自然』ではなく 3や4の意味のように、 自分を含めた全世界としての『自然』を大事にして 生きてゆきたい。 できることなら みんなの力で 「対立」の意味が 薄れてゆくほどに。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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