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Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2017年09月17日
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カテゴリ:夢有無有
「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ117
 ハイデガーの「見えざる手」とは、何故に世界が存在するのか、無が先じてありきで「存在」なるものが生じた、或いは創造されたのか。とはいえ、実のところ存在が悠久の永遠的なものであれば其れを問うことさえ愚問となります。初めに存在ありきをハイデガーは「神格性」を付与するのではなく「神の見えざる手」、言い換えると生命体である人間が幾ら遡及して究明しようと解答が出る筈のない課題、寧ろ、問うことこそが愚問。スピノザのように人間理性の捉える定義と定理と公理にしても存在の世界は説明可能かもしれませんが存在者を特定することはハイデガーの思想では受け入れ難いものであり、ハイデガーの「見えざる手」から観相すればスピノザが旧・新信教及びイスラム教と同等のことを述べているに過ぎないと判断、異相と違和感を感じるものの思考の流れは自らも取り入れた可能性が伺えます。思想自体を侮蔑した可能性は否定出来ないものの、其の論理的思考法は見倣った可能性も皆無ではありません。ハイデガーの「見えざる手」とは結局、人間が究明奔走するものではなく、不可触とするのが妥当だと述べているようにもとれます。彼ハイデガーは見えるハスラーではなくヴィリヤードのキューを握る「見えざる手を」の主体、人間には存在さえ問えない不可視のものを意識しています。神の「見えざる手」は「無」にこそ其の素因があるとしているのでしょうか。この辺りがスピノザの幾何学的演繹法を持って、所謂、スピノザのいう「絶対存在」ありきから始まる思考経緯は参照にはしても我慢出来ない論理思考であることは、ハイデガーがスピノザに触れることを嫌ったとするのが当を得ているかも知れません。
Nothing-ever1

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最終更新日  2017年09月17日 08時05分52秒
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