30571019 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2023年09月18日
XML
カテゴリ:霊魂論
「霊的世界の入口/DIE SCHWELLE DER GEISTIGEN WELT」
5:アストラル体とルツィフェル的存在について、エーテル体の特質について
 感覚世界の中に、そして、エーテル的な世界の中にも、そこがまるで彼らに想定された舞台であるかのように、霊的な領域から働きかけているのが観察される別の種類の霊的な存在たちがいる。彼らは感じる魂を感覚世界から完全に開放し、ある意味でそれを霊化しようとしている者たちである。感覚世界における生は世界秩序に属している。人間の魂は感覚世界の中に生きることによって、その存在条件の領域に属する発達をその中で遂行する。魂がこの感覚的な領域に織り込まれているということは、人が上方の世界で知るようになる存在たちの働きの結果である。この働きは感じる魂を感覚的な作用の制約から解放しようとする存在たちに対抗するものである。ここでは、この存在たちをルツィフェル的な存在たちと呼ぶことにしよう。ルツィフェル的な存在たちは感覚世界の中に立って、この魂的な(感じる)ものの中のあらゆるものに言わば目を光らせながら、それらをこの感覚世界から引き出し、彼らの性質に似た彼ら自身の世界領域に組み込もうとする。上方の世界から見ると、このルツィフェル的な存在たちの働きはエーテル的な世界においても顕著なものとなっている。彼らは、その思惑にしたがって、彼ら自身の内部に、感覚世界の重さの影響を受けない力の領域を打ち立てようとしているのであるが、その重さとは、上方世界の存在たちによって、この感覚世界の中に織り込まれることがあらかじめ定められているものである。もし、アーリマン的な存在たちが単に世界秩序の中に根拠づけられるような一時的な存在の消滅をもたらすだけならば、彼らの縄張りの内に留まることになるように、もし、ルツィフェル的な存在たちが感じる魂に力を浸透させ、この魂がその力によって感覚世界における強制を乗り越え、この強制に対して自立し、自由な存在として自分を感じる、という衝動をますます感知するようにさせるならば、彼ら自身の領域を踏み越えることにはならない。
ところが、ルツィフェル的な存在たちは、上方世界の全般的な秩序に反して、ある特別な霊の王国を創造し、感覚世界の魂的な存在たちをそれに向けて改造しようとすることで、その領域を逸脱する。感覚世界におけるルツィフェル的な存在たちの働きがいかに二つの方向に押し寄せるかを見ることができる。一方では、人間が感覚的な現実の単なる経験を超越することができるのは、これらの存在たちのお陰である。彼は彼の楽しみ、彼の高揚を単に感覚世界だけから引き出すのではない。彼は何か輝きの中に生きるもの、美しく輝くものとして感覚を超越する何かを享受し、それへと高まることができるのである。ルツィフェル的な働きは、この面では、最も意義深い文化の華、特に芸術的なものを生じさせるのに貢献してきた。人はまた、単に感覚的な事物を記述したり、思考の中で模写したりするだけではなく、自由な思考の中に生きることができる。彼は感覚の世界を超越する創造的な思考を展開したり、事物について哲学したりすることができるのである。他方、魂の中のルツィフェル的な力の過剰は多くの熱狂や混乱の源泉となるが、それらは魂的な活動の中でより高次の世界秩序の制約に捉われることなく展開しようとする。人間の魂は、「別の自我」を有することで、上方の世界に属している。しかし、下方世界の存在にも属しているのである。超感覚的な意識は、そのための適切な準備がなされたとき、上方世界の中にいるのを感知する。とはいえ、超感覚的な意識にとって、事実が変化するのではなく、単にどんな人の魂の中にもある事実にその事実についての知識が加えられるだけである。どの人の魂も上方の世界に属しているが、同時に、人が感覚世界に生きるときには、この感覚世界のプロセスの対象となる感覚体が割り当てられる。そして、元素的な世界のプロセスの中に生きる繊細なエーテル体が割り当てられる。感覚体とエーテル体の中には、アーリマン的な存在とルツィフェル的な存在の力が働いている。この力は霊的、超感覚的な性質のものである。 人の魂が上方の(霊的な)世界に生きる限り、それは-この表現を用いるとすれば-アストラル的な存在である。そのようなものとしての人間のアストラル的存在は地球の内部で作用する条件には左右されないということも、この表現を正当化する多くの理由のひとつである。人間のアストラル存在の中には、地球の自然法則ではなく、恒星世界のプロセスに関連する法則が働いているということを霊的な科学は知っている。したがって、この命名は正当化されるように思われる。人間の物理的-感覚的な体、及びエーテル的で繊細な体の認識に続くのは、第三の、アストラル的な体の認識である。しかし、アストラル的な人体は、それ自体の本質に関して言えば、上方の世界、本来の霊的な領域に根ざしているということが考慮されなければならない。この領域において、それはこの霊的な世界に活動の舞台を有するその他の存在と同じ種類の存在である。元素的、及び感覚的な世界が遥かなる霊の反映である限り、エーテル的な人体と物理的-感覚的な人体もまた人間のアストラル的な存在の反映とみなされなければならない。しかし、これらのエーテル的な体や物理的-感覚的な体の中には、ルツィフェル的な存在とアーリマン的な存在に由来する力が支配している。これらの存在たちが霊的な起源となっているため、感覚的、物理的な体や、エーテル的な体そのものの中にも人間の一種のアストラル的な存在が見い出されるのは当然のことである。超感覚的な意識の像だけを受け入れ、その意味を正しく理解できないような霊的観照には、物理的な体やエーテル的な体のアストラル的な衝撃を本来のアストラル体として受け取る、ということが容易に起こり得る。この「アストラル体」は、人間存在における正に四肢であるが、彼の働き中では、彼を世界秩序へと本当に導く合法則性に対抗するように方向づけられているのである。日常的な人間意識にとっては、魂のアストラル存在について認識することはさしあたり全く不可能であるため、この分野における混同と混乱の可能性はますます大きなものとなるしかし、第一段階の超感覚的意識もまたこの認識を達成することはできない。人がこの意識に達するのは、そのエーテル体の中で自己体験するときである。とはいえ、彼がエーテル体の中で見るのは彼の「別の自我」の鏡像であり、彼が属する上方世界の鏡像である。そのように、彼は彼のアストラル体のエーテル的な鏡像を見るのであるが、それに含まれるルツィフェル的な存在やアーリマン的な存在とともにそれを見るのである。本著の後半では、人が日常の生活においてその存在であると見なすところの「私」は、「本当の私」ではなく、「本当の私」の物理的-感覚的世界における反映であるということが警句の形で示されるはずである。同様に、エーテル的な観照にとって、アストラル体のエーテル的な反映は、「本当のアストラル体」の幻像となり得る。 超感覚的な意識は、上方世界に精通することをさらに追求する中で、人間存在に関する下方世界における上方世界の反映の本質についての真の洞察を得るに至る。特に、人間が今の地上存在としてそれを身に着けているようなエーテル的で繊細な体は、本当は上方世界の彼に対応するものの反映ではない、ということが示されるのである。それはルツィフェル的な存在とアーリマン的な存在の働きによって歪められた鏡像である。上記の存在たちが働く地上存在の特質を通すことによっては、エーテル体の霊的な原像が地上の人間の中に完全に反映されることはあり得ない。超感覚的な意識がエーテル体の原像の完全な反映が可能な領域に向けて地上の道を追求していくと、現在の地球の状態を越え、さらに先行する月の状態をも越えて、遥かなる過去に引き戻されるのを見る。現在の地球は月状態から、さらに月は太陽状態から発展してきた、ということについての洞察を得るに至るのである。太陽状態という名前が正当化される理由については、私の「神秘学」の中に詳細が見いだされる。地球はかつて太陽状態にあり、そこから月状態へと発展し、それから「地球」になったのである。人間のエーテル体は、太陽状態の間は、彼がその源泉をその中に有する世界の霊的なプロセスや存在の純粋な鏡像であった。超感覚的な意識にとっては、これらの存在たちは完全に純粋な叡智から成立っているということが明らかとなる。したがって、人間は、地球の太陽時代という遥かなる過去において、宇宙の叡智存在の純粋な反映としてそのエーテル体を獲得したと言うことができるそして、続く月と地球の時代とを通してこのエーテル体は変容し、現在、人間存在の中にあるようなものとなったのである。
□これまでの要約/ZUSAMMENFASSUNG DES VORANGEHENDEN
 人間は霊的な世界に属する魂的な存在の核を自らの内に担っている。この魂的な存在の核は、繰り返される地上生を貫いて生きるところの人間の永続的な実体であり、ある地上生においては、日常意識の内部で、この意識に対抗する自立的な存在として発展し、人間の物理的な死の後には、純粋に霊的な世界で生き、そして、適切な時間が経過した後、新しい地上生の中で、以前の地上生の結果を生きる。この永続的な実体は人間の運命を吹き込むものとして働く。それは、ひとつの地上生が世界秩序に基づいて基礎づけられた先行する地上生の結果として生じるように、この運命に影響を与える。人間はこの永続的な存在そのものであるが、その中では、彼の「別の自我」の中にいるようにして生きている。存在としての彼がこの「別の自我」である限り、彼は、物質体とエーテル体の中に生きるように、アストラル体の中に生きているのである。物質体の環境は物質的なものであり、エーテル体のそれは元素的な世界であるように、アストラル体の環境は霊的な領域である。人間の「別の自我」と同じ種類、同じ起源をもつ存在が、アーリマン的な力とルツィフェル的な力として、物質的な世界と元素的な世界の中で働いている。それらが働く方法を通して、アストラル的な人体のエーテル的及び物質的な人体に対する関係が理解可能なものとなる。エーテル体の起源は、地球の遠い過去の状態、いわゆる太陽期に見出される。
 図式的には、ここで述べたことにしたがって、人間を次のように考察することができる:
I. 物理的-感覚的環境中の物質体
それを通して、人間は自分を自立した独自存在(私)として自覚する。
II. 元素的な環境中の繊細な(エーテル的な)体
それを通して、人間は自分を地球生命体の一分枝として認識するとともに、それによって間接的に、連続する3つの惑星状態の一分枝として認識する。
III. 純粋に霊的な環境中のアストラル体
それによって、人間は、元素的、及び物理的な世界がその反映である霊的な世界の一分枝である。その中に横たわっているのは、繰り返される地上生の中で表現されることになる人間の「別の自我」である。



哲学・思想ランキング





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2023年09月18日 06時10分07秒
コメント(0) | コメントを書く


PR

プロフィール

cap-hiro

cap-hiro

サイド自由欄

カテゴリ

キーワードサーチ

▼キーワード検索

バックナンバー

楽天カード

フリーページ


© Rakuten Group, Inc.