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Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2023年09月22日
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カテゴリ:霊魂論
「霊的世界の入口/DIE SCHWELLE DER GEISTIGEN WELT」
9:霊界の諸存在について
 魂が超感覚的な世界に超感覚的な意識をもって参入するとき、感覚世界では思い描くことができないような仕方で自己認識することを学ぶ。魂はその変容能力によって、自分と親密な、あるいは疎遠な存在たちを知るようになるが、同時に、超感覚的な世界で出会う存在としては、単にそれと親密であるだけではなく、自分自身を知るためには、それと自分を比較しなければならないような存在たちがいることにも気づく。そして、さらなる観察によれば、これらの存在たちは、魂自身がその感覚世界における経験や体験を通してそれになったところのものに、超感覚的世界においてなったものであるということが分かる。元素的な世界の中で人間の魂が出会うのは、人間自身がエーテル体やその他の超感覚的な体の他に肉体を担っていることによってのみ発達させることができる力と能力を元素的な世界において発達させた存在たちである。ここで定義された存在たちは、何ら物理的・感覚的な身体を持っておらず、人間が肉体を通して持つような魂的存在をそのエーテル体を通して持つようになった者たちである。彼らはある程度までは人間と同等の存在たちであるが、感覚世界の条件には従わない点で異なっている彼らの認識は人間の認識と似ているが、彼らはそれを感覚によって獲得したのではなく、彼らの表象や彼らの本質の奥深くからくるその他の魂的経験をいわば上昇させることによって獲得したのである。それは彼らの内的生活であるかのように彼らの内に据えられる。そして、人間が記憶表象をその魂の深みから呼び出してくるように、彼らの魂の深みからそれを呼び出してくる。人間は、このようにして、彼が感覚世界の中でなることができたものに、超感覚的世界の中でなった存在たちを知るようになる。この関連で言えば、これらの存在たちは人間と同種のものと呼ばれ得るが、世界秩序の中では、人間よりも一段上に位置している。彼らは人間の上に位置する存在領域、存在の位階において人間の上に位置するヒエラルキアを構成する。彼らのエーテル体は、同じ種類のものであるとはいえ、人間のエーテル体とは異なっている。人間がそのエーテル体の共感と反感を通して地球の超感覚的な生命体に織り込まれているのに対して、これらの存在はその魂的生活をもって地球に縛られることはない。これらの存在たちがそのエーテル体を通して何を体験しているかを観察すると、人間がその魂の中に有している体験と似たものであることが分かる。すなわち、彼らが有しているのは思考、感情、そして、意志である。とはいえ、彼らは、人間が肉体を通してのみ発達させることができるものを、エーテル体を通して発達させる。彼らは彼らのエーテル体を通して彼ら自身の存在を意識するに至るのである。人間は物理的・感覚的な体の中で得た力によって獲得したものを超感覚的な世界に持ち込まなければ、超感覚的な存在については何も知ることができないだろう。超感覚的な意識はエーテル的な人体の助けによって観察する能力を得ることでこれらの存在を認識することを学ぶのである。この意識はこれらの存在がその生活空間や作業場とする世界へと人間の魂を上昇させる。人間の魂がこの世界の中ではじめて自分で体験するとき、これらの存在の認識を仲介する像としての表象がその意識の中に現れる。これらの存在は物理的な世界に直接介入することはなく、したがって、物理的・感覚的な人体にも介入しない。彼らは肉体を通して可能となる経験にとっては存在せず、ある意味で、感覚世界に踏み込むことのない霊的超感覚的な存在なのである。もし、人間が感覚世界と超感覚的な世界との境界に注意を払わなければ、これらの存在の真の表現ではない超感覚的な像を彼の物理的・感覚的な意識の中に引き入れるということが生じ得る。これらの像はルツィフェル的あるいはアーリマン的な存在の体験を通して生じるが、これらの存在は先に述べた超感覚的な存在に似ているとはいえ、彼らとは対照的に、人間が感覚世界として知覚する世界の中にその住処と活動の場を移しているもし、人間が、「入口を守る者」との経験を通して、超感覚的な世界と感覚存在との間の境界を正しく顧慮することを学んだ後で超感覚的な世界から超感覚的な 意識を通してルツィフェル的あるいはアーリマン的な存在を観察するならば、これらの存在をその真の姿において知ることができる。彼らは自分たちの本性にふさわしい活動の範囲内に留まる別の霊的な存在たちとは異なっていることが分かる。霊学はルツィフェル的あるいはアーリマン的な存在について、この観点から記述しているのである。その場合、ルツィフェル的な存在については、彼らに相応しい活動の場は物理的・感覚的な世界ではなく、ある種の元素的な世界であるということが分かる。元素的な世界の内部でまるで洪水のように像として湧き起こるものが、人間の魂の中で幻覚としての様相を帯びることなく、彼のエーテル体の中で生き生きとし て働くならば、この像が魂の中に侵入し、その中にルツィフェル的な存在がいたとしても、その行為は世界秩序に違反するものとはならない。そのとき、これらのルツィフェル的な存在たちからの働きかけによって、人間の魂は感覚世界に単に織り込まれている状態から自由になるのである。しかし、もし、人間の魂が元素的な世界においてのみ展開すべき生活を物理的・感覚的な世界に持ち込むならば、つまり、エーテル体の中でのみ支配的であるべき共感と反感が肉体の中の感情にまで影響を及ぼすようにさせるならば、この魂を通して、ルツィフェル的な存在が普遍的な世界秩序に反抗する流れを手に入れることになる。この流れは、感覚世界の中にいる他の存在たちの生命への思いやりに基づく愛以外のものが感覚世界の共感と反感の中で働くところでは、どこにでも存在している。愛される可能性のある存在があれこれの特徴を有しているからという理由で愛されるとき、ルツィフェル的な要素がその愛に混入する可能性はない。愛される存在の感覚的に現れる特徴の中にその根拠を有する愛はルツィフェル的な影響を遠ざける。ルツィフェル的な流れに傾く愛とは、愛される存在にではなく、愛する存在にその根拠を有する愛である。ある存在を、自分が気に入るような特徴を有しているからという理由で愛するならば、ルツィフェル的な要素に親和性のある魂の部分で愛しているのである-とはいえ、ルツィフェル的な要素はいかなる場合にも邪悪なものであると言うべきでは決してない。何故なら、人間の魂は、超感覚的な世界の事象や存在については、ルツィフェル的な要素の意味で愛さなければならないからである。超感覚的なものに魅かれるために用いられるべき種類の愛は、感覚的なものに向けられるときはじめて世界秩序に反するものとなるのである。超感覚的なものへの愛は、愛する者の中に高められた自己感情を正しく呼び起こすが、そのような自己感情の高まりを求めて感覚世界の中で追求される愛は、ルツィフェル的な誘惑に相応しいものとなる。霊的なものへの愛は、それが自分のために追求されるとき、解放的な働きをする。感覚的なものへの愛は、それが自分のために求められるとき、解放的には働かない。愛によって得られる満足が自分にとっての足かせとなるからである。アーリマン的な存在は、ルツィフェル的な存在が感情する魂に対してそうするように、思考する魂に対して自己主張する。彼らは思考を感覚界に縛りつける。いかなる思考も感覚存在の中に基礎づけることができない世界の大いなる思考秩序の一部として自己主張するときにのみ意味を持つ、という事実からそれを逸脱させるのである。アーリマン的な要素は、人間の魂的生活がその中に織り込まれている世界の中に、ルツィフェル的な要素に対抗するものとして存在していなければならない。ルツィフェル的な要素がなければ、魂は感覚的な存在を観察する中でその生を夢想し、自らを越えて高まろうとするいかなる衝動も感じることはないだろう。それに対抗して働くアーリマン的な要素がなければ、魂はルツィフェル的な要素の手にかかり、その主要な存在意義の一部がそこにあるにもかかわらず、感覚世界の意義にはほとんど注意を払わず、それを知ろうとはしなくなるだろう。したがって、アーリマン的な要素が人間の魂の中に正しく位置づけられるのは、それが適合する世界である感覚世界に馴染む方向に導くときであるもし、人間がこの世界をその通りのものとして受け取るならば、その世界にとってはその性質上一時的であるべきあらゆるものの中で、それなしで済ますことにもなりかねない。自分の中のルツィフェル的な要素やアーリマン的な要素を根絶やしにすることでそれらの手に落ちないようにしたいと言うならば、それは全く不可能である。例えば、もし、自分の中のルツィフェル的な要素を根絶すると、自分の魂によって超感覚的な世界に向けて努力することができなくなる。もし、アーリマン的な要素を根絶すると、もはや感覚世界をその十全たる意味において正しく評価することができなくなる。これらの要素と正しい関係へともたらされるのは、それぞれにバランスを取るための錘を反対側に置くときである。これらの世界存在たちによるあらゆる悪影響が結果として生じるのは、それぞれがそれぞれに対抗する力によって正しい調和へともたらされるときではなく、それらがあちこちで無制限に効力を発揮するときである。



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最終更新日  2023年09月22日 06時05分29秒
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