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Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2023年09月27日
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カテゴリ:霊魂論
「霊的世界の入口/DIE SCHWELLE DER GEISTIGEN WELT」
14/参照:新版1918のための後書き
 魂が超感覚的な世界に意識的に参入する能力を獲得しようとするなら、基本的には表象活動であるところの働きを内側から展開することによって、まずその力を強めなければならない。とはいえ、この表象は日常意識において単に感覚知覚やそれに伴うものに従って展開される強さで行使されるべきものではない。そこにある表象は知覚よりも遥かに弱いものであり、単にこの強さで行使しても、魂が超感覚的な世界に参入する能力を発達させることはできない。表象は、単に表象に留まるとしても、知覚そのものの強さにまで強化されなければならない。それは目に見えるものの影のような模写の織物に留まるのではなく、それ自体が目に見えるもの、絵画的なものにまで濃縮しなければならない。生き生きとした像を刻み付けるようにするのである。とはいえ、魂的な力をもって単にこの像の中に留まることが重要なのではない。その像から注意を逸らし、像を形成する自分自身の活動へと向かうのである。それによって、自分が内的に強化された自己意識の内にあるのを見出すのであるが、同時に、この内的な魂の訓練を何度も繰り返していると、数週間乃至数か月、 あるいは、もっと長い時間が経った後に、この強化された自己意識を掴み取ることによって、超感覚的な世界と関わりを持つようになっていることに気づく。最初、この世界との接触は一般的な感情的印象の中で体験されるような混沌としたものである。しかし、その混沌の中から少しずつ形成されるようになるのはそれ自体で差別化された客観的な像の世界である。人は、像を形成する訓練を行うことで、しばらくすると、ある外的な霊的現実が強化された自我意識を用いて像を紡ぎ出すようになるのであるが、それらの像は それら自身の啓示の中でひとつの客観的な超感覚的世界を表現する像としての自分自身を示しているということに気づくようになる。これは、より正確に記述するならば、人間の魂が超感覚的な世界への途上で出会う像の織物による経験であり、本書の「2.霊的世界の認識について」の中では次のように述べられている。「瞑想によって強化された魂的生活の力を通して、まず、魂による超感覚的な世界との「接触」が行われる。それによって、魂的 生活の流れの中から特徴的な像が浮かび上がってくるが、そのような像は実際には完全に魂そのものから織られた一幅の絵巻物である。それは魂自身が感覚の世 界の中で獲得した力から織りなされており、実際、記憶に比肩し得るもの以外には何も含まれていない。」と。超感覚的な意識に向けて努力する者は、明瞭な内的体験の中でこのプロセスを自ら可視化することで、超感覚的な分野における現実を認識するとともに、それを想像上のファンタジーという単なる幻想から区別するための確かな可能性を自分のものとする。本書の「2:霊的世界の認識について」の中では、超感覚的な体験の端緒に立つ意識が有する像とは、「さしあたり、カーテンのようなものであり、それは魂が超感覚的な世界に触れられたと感じるときその魂が自らその世界の前にかけたものである」と述べられている。この「カーテン」について述べておく必要があるだろう。何故なら、その像は最初に自分の自我意識を超感覚的な世界にまで高めるためだけのものだからである。人はそれによって自分が霊的存在であると感じるのであるが、まだそれを通して客観的に超感覚的な外界を見ることはできない。それは人間が感覚生活の中で自分自身の有機体の一部と感じるような目を有していても、その目自体が照らされるわけではなく、したがって、外界がその働きを目の中へと展開することはできないようなものである。人は魂の中に織り込まれた像の中でいわば自ら作動し続けることによって、その像を霊的に透明にしなければならない。像は彼ら自身が発展することによってますますそのようになる。その結果、人は像を見るのではなく、それを単に魂の中に生きるものとして感じながら、それでもそれを通して超感覚的な現実の本質を知覚するのである。人が超感覚的な世界に初めて参入するときに有する知覚印象のひとつは、この世界へと引き上げられたその自我意識によって、彼がこの世界の存在たちと共感と反感によって結び付けられているのを見るというものである。「7:自我感覚について、そして、人間の魂の愛する能力とその元素的な世界との関係について」参照すれば、人は既に、本当に超感覚的な世界に参入しようとするのであれば、その表象に関しても感覚の世界を離れなければならないという経験をすることに気づいている。確かに、感覚の世界から得られた表象によって超感覚的な世界で見られるものを記述することはできるだろう。例えば、ある存在が色彩現象を通して現れることについて語ることができる。ただ、超感覚的な実在についてのそのような記述を受け入れる者は、真の霊探求者がそのような色について述べるとすれば、それは感覚的な意識をもってその色を感知するのと同様にして何かを魂的に体験したということを意味しているということを決して無視してはならない。感覚的な色彩と同じ何かを意識の前に有しているということを言葉で表現しようとする者は、霊探求者ではなく、空想家または幻視者である。一方、人が超感覚的な世界についての最初の超感覚的な知覚印象を本当に眼前に有するのは共感と反感の体験によってである。霊の探求者が自分で見たものを単に図示することを意図して、感覚的な経験から取ってこられた表現を用いて話すとき、正にそのように語らざるを得ないことに失望する人々がいる。というのも、そのような人々は、感覚的な世界とは異なる超感覚的な世界を自分で認識しようと努める代わりに、感覚的な世界の一種の替え玉(ドッペルゲンガー/doppelganger)を超感覚的な世界として認めたがっているのである。この超感覚的な世界は感覚的な世界よりも繊細で、より「エーテル的」なものである筈ではあるが、それ以外の点では、感覚的な世界とは別の表象によって捉えられなければならないという要件まで課すはずのものではない。しかし、本当に霊的な世界に自分で近づこうとする者は新しい考え方を取り入れることにも適応しなければならない。感覚的な世界の希釈された霧のような像だけを表象しようとする者には超感覚的な世界を把握することは不可能である。日常的な意識での魂的生活の中で卓越した役割を果たす記憶力は超感覚的な世界の知覚に際して適用される人間の能力として考慮されることはない。本書の「7:感覚について、そして、人間の魂の愛する能力とその元素的な世界との関係について」の中で記憶について述べられた箇所「正しく発達した 人間の霊視においては、超感覚的な世界への目覚めが生じるとき、感覚世界の中で魂が体験したことへの記憶は利用可能な状態に留まる。」を誤解しないように、このことは考慮されるべきである。人間の魂が物理的な世界の中で生活するに際してこの記憶力を有しているのは、その世界の中でのその活動をその身体組織を通して遂行するためである。超感覚的な世界へと高められた魂がその世界の存在や事象に直面したときにその記憶力を行使するということはない。最初、魂はこの世界の中で自分の前に立っているものを単に「見る」だけであり、再び自分の体に戻ったとき、その印象が記憶として残ることはないとはいえ、それがそのままで留まることはない。魂は物理的な世界での経験から記憶力の余韻を携えていくことで、自分はこの超感覚的な世界においてもあの感覚的な世界において自分自身であるところのものであるということを超感覚的な体験の中でも知ることができるのである。この記憶力が魂にとって必要なのは、自我意識の中での文脈が失われないためである。しかし、これ以外に、超感覚的な世界へと高められた自我意識は、その世界で体験した印象を変容させ、物理的な世界の感覚的な印象のような体の中での印象にする能力をも獲得する。そして、それによって、超感覚的な世界で体験されたものへの一種の記憶を保持することが可能となる。そうでなければ、この体験は絶えず忘れ去られることになるだろう。とはいえ、物理的な世界の印象が人間に働きかけるときには、その印象自体が彼の中で何かを引き起こすことによって、後でその印象を思い出すことができるようになるのであるが、超感覚的な領域においては、後で日常的な意識の中でもそれらを知ることができるように、そこでの経験そのものに働きかけなければならない。超感覚的な体験においては、すべてが意識の十全たる光の中で進行しなければならない。霊的な探求者がいつも苦労するのは、超感覚的に為された彼の体験を思い出すことができるように、それを保持することである。彼が知っていることを「ただ思い出しながら」他の人々に語るのは容易なことではない。それを求められた場合には、彼が見たものをそれについて語るべきときに再び見るために、その経験をしたときの条件を魂の中に再構築するように強いられるということがよくある。超感覚的な世界の中で体験された像とその像に対応する現実との関係もまた、感覚的な対象あるいはプロセスに対する魂的な印象の関係のように簡単なものではない(「8:感覚世界と超感覚的世界の境界について」参照)。超感覚的な世界における意識はこの関係を完全に見通していなければならない。目の前に机があるというようなものではない。魂の前に机があることによってその中に生じるもの、それはほとんど生きていないか、意識の中で完全に色合いが変化させられている。超感覚的な存在を知覚したときには、あるいは上述した仕方でその像を「透視」したときにも、この像を自己意識の中で感情的に体験するのである。そして、人が超感覚的な意識をもってこの感情的な体験の中に完全に沈潜しさえすれば、魂の前に現実が現れるのであるが、その体験は像の体験とは完全に区別されることができ、また、区別されなければならない。これら二つの体験が互いの中に消失することは許されない。何故なら、人が体験することがらに関しての幻想の源はそこにあるからである。
 (了)



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最終更新日  2023年09月27日 06時12分00秒
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