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《櫻井ジャーナル》

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2011.06.29
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 東京電力の福島第一原子力発電所の事故は、東北地方に破局的な状況をもたらしつつある。そうした事故を招いた責任はエネルギーを大量消費してきた大都会の人々にあるとする主張もあるようだが、「大都会の人のみ」に責任があるということなら、正しいとは言えない。問題を単純化しすぎている。

 大都会の人々が「原発の電気」を求めてきたとは言えず、そうした人々の責任は「何も考えてこなかった」という点にある。東京都が築地市場の移転先としている江東区豊洲では3月の地震で液状化が起こっているが、これについて考えている「東京人」も多くはない。身近な問題についても考えていないのが実態だろう。

 何も考えない人間を作り上げるうえで重要な役割を果たしたのは、言うまでもなく、教育と報道にある。教育の中身を決めてきた文部省/文科省は原子力政策を推進する拠点のひとつ。原発の「安全神話」を彼らが子どもたちに刷り込もうとするのは必然だ。

 一方、マス・メディアには「プロパガンダ機関」としての役割があり、支配層にとって都合の良い話を人々に信じ込ませるだけでなく、感情をコントロールしてきた。

 ところで、メディアが権力システムにとって好ましくない情報を排除するフィルターは5種類あるとMIT(マサチューセッツ工科大学)のノーム・チョムスキー教授は指摘している。

 第1のフィルターは報道を生業とする会社を立ち上げるために相当の資金力が必要だという事実。

 第2に、主な収入源である広告主に逆らうことは難しいという現実。ちなみに、東京電力が2010年度に支出した広告宣伝費は約116億円だったという。

 また、2008年にトヨタ自動車の奥田碩(ひろし)相談役は「正直言ってマスコミに報復してやろうか。スポンサーでも降りてやろうか」と発言、マスコミの編集権に経営者が介入するやり方があるとも口にしている。当時、マスコミは年金や保険の問題を批判的に取り上げていた。そのほか、銀行が融資を止めるという手段もある。

 第3に、情報源の問題。政府や大企業の「大本営発表」を垂れ流している。「客観性」を装うため、政府や企業のお墨付きを得た「権威」たちを登場させることも常態化している。アフガニスタンやイラクへの先制攻撃に伴う情報操作、あるいは福島第一原発の報道に接し、マスコミの偏向ぶりを知る人は大幅に増えたことだろう。

 第4は、メディアに対する権力システムからの圧力。日本ではNHKの番組改変に関する訴訟が有名。安倍晋三官房副長官(当時)など自民党の有力議員と接触した松尾武放送総局長や野島直樹国会担当局長は「相手方の発言を必要以上に重く受けとめ、その意図を忖度(そんたく)してできるだけ当たり障りのないような番組にすることを考えて試写に臨み、直接指示、修正を繰り返して改編が行われたものと認められる。」と2007年に東京高裁は指摘している。

 そして第5はイデオロギー。権力システムにとって都合の悪い考え方は「コミュニズム的」だと攻撃、「私有化」や「規制緩和」については手放しで賛成してきた。ただ、この「イデオロギー」なる代物には曖昧な部分がある。

 歴史を振り返ると、アメリカや日本を支配している思想は異質である。その結果が「強者総取り」のシステム。支配層は談合し、庶民は競争させている。このシステムにおいて、適切な対価を支払うという考え方は消え、「助け合い」は「社会主義的」だとして社会の仕組みから排除されてきた。「XX募金」はあくまでも個人的な活動にすぎない。

 ヨーロッパを見ても、「強者総取り」の考え方が広まるのは比較的に新しい。例えば、中世では「世俗の乞食さえも折々は、有産者に慈善という善行の機会をあたえるところから、『身分』として認められ、評価されることがあった」(マックス・ウェーバー著、大塚久雄訳『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波書店、1989年)ほどである。

 これはカトリックの考え方だが、仏教の場合は「喜捨」、イスラムでは「ザカート」や「サダカ」などの仕組みがある。こうした考え方を否定したのがプロテスタント。

 マックス・ウェーバー氏によると、プロテスタンティズムの「禁欲」は「心理的効果として財の獲得を伝統主義的倫理の障害から解き放」ち、「利潤の追求を合法化したばかりでなく、それをまさしく神の意志に添うものと考えて、そうした伝統主義の桎梏を破砕してしまった」という。(前掲書)コミュニズムには「伝統主義的倫理の復活」という側面があったと言えるだろう。

 強者総取りを否定するという点で、本来、「右翼」と「左翼」に大差はないはず。その象徴的な存在が「重信親子」だ。親は重信末夫氏。一水会の鈴木邦男氏によると、血盟団に所属していた池袋正釟郎氏や四元義隆氏と親しかったという。

 言うまでもなく、血盟団とは井上日召氏をリーダーとする団体。1932年2月に井上準之助元蔵相を、また同年3月には三井財閥の「大番頭」と呼ばれていた団琢磨氏を暗殺したことで知られている。政財界のトップ20名を殺す予定だったとされている。

 暗殺を実行する前、池袋氏は重信氏を都城から東京へ呼び寄せ、血盟団に入れているのだが、井上氏から「お前は心が優し過ぎるからテロリストには向かない。」と言われ、郷里に返されたという。この重信末夫氏の娘が重信房子氏。日本赤軍のメンバーだった。その娘を末夫氏は「右翼」だとしていたようである。

 右翼と左翼ですら、厳格に区別することはできないわけで、物事を単純化しすぎると問題の本質を見誤ることになりかねない。





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最終更新日  2011.06.29 14:30:39



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