虹の橋を渡りました
先日2月24日に、母が他界しました。最期は苦しまず、眠るように安らかに旅立ちました。初七日が終わったので、母のブログでもご報告をしようと思い、娘のにゃおがこちらの文章を打ち込んでいます。娘の見たポテちゃんの最後を書きたいと思います。色々端折る事も出来ず長くなりました。そして文面等母とは違いおかしいところがあるかもしれませんが、ご了承下さいね。2月4日の法要を終え、2月5日に入院。入院中、最初は予約でしか面会できず、しかも面会は週一回の14時から16時までの間の予約制で一回30分、2名迄。2親等以内と厳しい条件でした。入院した日にすぐ2月7日に予約を入れ、最初は市内に住む叔母と行きました。個室にしていたので部屋でゆっくり面会できました。最後のブログはその時に文面をもらって夜にすぐアップ。その週末の10日土曜日には、味気ない病院の食事では本当に食べられなくなるし、とタラコやふりかけを持って病棟に届けに行きました。「コンビニの安いショートケーキが食べたい」というので、はりきって自作したのですが、スポンジが失敗(笑)でも一緒に持って行きました。食べ余したようです...。「クリームはおいしかったよ!」って感想。クリームはよつ葉乳業の美味しいのだったのが救い...。息子のタケは毎日母と接していただけに、今回の入院時も毎日のように自ら電話していました。「ばあちゃん、オレだよ、オレオレ」がお決まりのフレーズ。オレオレ詐欺にひっかからないように訓練しているのだ、とタケ。携帯電話だと登録した名前表示されるんですけど...とは突っ込まずに見ていました。一番小さい孫ということで母もやはりかわいいのか、私と話す時とは声のトーンもまるきっり違うので、聞いていると面白い。(笑)今回の入院に限らず、タケは母がボケないようにと、父の死後は毎日母との会話を日課にしていたマザコンならぬババコン。そんなババコンのタケのために、次の面会はタケの行けるタイミングでと、タケが午前授業の2月15日に次の面会の予約を取り、面会に。母もタケの来訪を喜び、呼吸が少し苦しそうでしたが、色々お喋りしました。その時バレンタインで作ったチョコタルトを姪のアオちゃんから、おいしいコーヒーを兄から預かっていたのを持って行きました。チョコタルトはおいしい、と、パクパク食べ、余ったら一口貰おうと思っていたら、思いのほかぺろりと食べてしまいました。食べ物がのどにつかえるようになってきて食べにくいと言っていたのに、チョコ好きの母に何よりのプレゼントだったのですね。ご飯が進まなくても甘いものが別腹だねーと笑って過ごし、次週は期末テストが終わる水曜日に来るからねと面会予約を入れ、帰りました。その次の日の16日金曜日、食べるとのどを突き上げるような痛みがあるとラインがあり。痛みにめっぽう強い母が言うのだから相当痛いのでしょう。17日土曜日には、胸がじりじり焼けるような痛みがある、着替えももういらないとラインあり。でもとりあえず新聞とガリガリ君を持って行って渡して貰いました。ガリガリ君ミニサイズはおいしく食べられたとのこと。18日日曜日、兄が主治医にお願いし、やっと面会フリーになりました。では行ってこようと午後からしばらく一人で病室に居た私ですが、せっかくフリーになったのだからとみんなで行こうと、一度帰って再度夜にゃお一家で病院に行きました。それでも一度に面会は二人までというので、私と娘マオ、オットとタケと二手で別れて面会。鼻に酸素のチューブがつきました。その日は痛みがでてきて、とてもしんどそうでした。マオも泣きながら母の手をさすっていました。そろそろ鎮静の時が来たのを私も覚悟し、話せるのはこれが最後かもしれないと思いました。翌日19日、勤務中に病院から電話があり、痛みが辛いので、眠らせてほしいと本人から申し出があり、家族の許可を貰う為に連絡したと主治医からでした。意思疎通はできなくなるが、かまわないかと。もちろん、痛くないようにしてほしいので、話せなくともかまわないので希望通り眠らせてほしいとお願いしました。そこからはオールタイム何人でも面会フリーに。仕事が終わってから様子を見に行くと、睡眠導入剤を24時間投与されている状態で、うつらうつらしてほとんど何も話せない状態でした。酸素も鼻チューブからから口マスクになりました。その晩からはいつ呼び出されてもすぐ行けるように、着替えを枕元に準備して眠る日々を過ごしました。20日から毎朝早起きして母のところへ出かけ出勤前ぎりぎりまで様子を見て、仕事のあとにもう一度様子を見に行く日を続けました。入れ替わりで仕事帰りのオットが来たり、病院のすぐ隣の学校に通う娘マオが合流してお見舞いして帰る日もありました。日中叔母がずっとそばで見ていてくれた日もありました。本人はうとうとしているけど、きっと音は聞こえているはずと看護師さんが言っていた事もあり、スマホに入れたフミヤの歌を耳元で流してあげながら病室で過ごしました。22日は呼吸が少し苦しそうで熱も高く、心配な気持ちで帰りました。23日金曜日朝様子見に来て、戻って家事をしてから夕方も様子を見に来ました。おでこを触ると温かく、熱があるのがわかりました。そして酸素の流量を看護師さんが帰りにぐっと上げたのがわかり、不安な思いで帰りました。その日の夜入浴中に兄から電話があり、母の容体がよくないと病院から電話があったとのこと。みんなで様子を見に行きました。一人だけ付き添って泊ってもいいとのことで、個室に簡易ベットを入れて貰い、にゃおが一泊しました。酸素の流量はマックスの値になっていました。午前5時頃ふと目が覚め、母の様子を見てみると、呼吸が間遠になっている事が分かりました。そばに腰掛け、スマホでフミヤを流しながら、手を握ったり、やや冷たい足を血の巡りがよくなるようマッサージしながら過ごしました。午前8時ごろ、呼吸の感覚がすごく開いてきて、これはおかしい、とナースコールを押しました。ふと見ると、呼吸が止まっている?!思わず肩をゆすって「お母さん!!」と叫びました。そしたらふっと息が戻ったけど、一度呼吸した後は何度ゆすってももう反応しませんでした...。最期は苦しそうな感じは全然なく、眠るようにすうっと逝きました。その後は兄に電話して、オットに連絡して。みんなが集まってから死亡宣告がされました。葬儀屋さんに連絡、病院の荷物の片付けなどなど。なんだかわけがわからないうちに家に戻り母を安置する場所を用意して。お坊さんが来て枕経を唱えてもらって。葬儀屋さんとお通夜とお葬式の日程を決めた後は様々なお葬式の決め事を決めて。怒涛の二日間を終え、その後は事後処理を兄と粛々と進めている日々です。そこで思う事は、母の偉大さ。病気が分かる前から終活終活と頑張ってきた母。病気がわかってからはさらに様々なものを片付けしてきたのはブログでご覧の通りです。無駄なものがほとんどなく、片付けもあっというまに終わりそうです。なんとありがたいことか。そして残された私と兄が困らないよう、すべて文面に残しておいてくれました。遺産の分割から、パソコン関連のIDとパスワード。ライフラインの様々な手続きもスムーズにいくように準備がされていました。ガンが発覚した10月あたま、最初は抗がん剤はしない、そのままですぐ死んでもいいと言っていた母。その気持ちは尊重したいけど、10月末のフミヤのコンサートは?と言ってとりあえず一回試した抗がん剤1クール目が思いのほか効果があり。もうちょっとやってみて、やらねばならない事をやり遂げたい、と体調の悪い日も頑張ってきた母。おかげで兄と私は迷う事もなく事後処理を進められているわけです。遺産分割でもめないよう、持っていた土地を売却したり。株券を現金化したり。リビングニーズの特約のついた保険も先に受け取って葬儀代に使ってほしいと言いだしたり。何度も、しないとならないことじゃなくて、したいことしてよ、残された時間!!と母に言いましたが、母にとっては子供たちの為に最後の終活をきっちりする事が一番したい事だったようです。今この文章は母のパソコンで打っています。母が自宅療養していた部屋で、二階にあったテレビを下ろしてきてあり、今パソコンの横に置いています。YouTubeでも見ながら作業しようかと思ってなんとなくつけたら、WOWOWの無料放送でフミヤのライブが!!うわー、フミヤが初七日迎えたお母さんのために歌ってくれているよ...。と、偶然の出来事ですが昨年10月の出来事を思い出していました。2023年10月の旭川のライブはフミヤの体調不良で2024年5月に延期となりました。会場にいって中止の知らせを見て、母はとってもがっかりしていました。でも、私はフミヤには感謝しています。抗がん剤を始めるための説得になかなか応じなかった母に、そのライブ、行きたいでしょう?だから一度だけでも抗がん剤ためしてみようよ、というのが、とっても効果的な説得材料となったからです。結婚して福島県に住むようになった時には、祖父母はもちろん両親の死に立ち会う事など絶対にないのだろうと思っていました。しかし、祖父の時は立ち会えませんでしたが、祖母の時はたまたま福島から帰省していた時。次の年はダイスケが同じく帰省中に。東日本大震災が起きて旭川に転居して、父を見送り、母も見送り...。私はどういう星の元に生まれているのでしょうね。こうして親の介護ができたのも、オットが支えてくれたからです。今回本当に最後の方は家のこと全然できませんでしたが色々と支えてくれました。感謝の気持ちでいっぱいです。そして振り返ると私は、今まで兄嫁に対する愚痴っていうものを母から一度も聞いた事がありません。それって娘からすると、とっても幸せな事です。母はお嫁さんにも恵まれ、幸せなお姑さんだったんだなと、これまた長くつきあってくれた兄嫁に感謝の気持ちでいっぱいです。母は頑固だし、つきあっていくうえで大変だったろうとは思うんですが...。お母さん、入院してからも幸せな病人でいられましたか?虹の橋には、みんな待ってましたか?私も兄も、父と母の子供でとても幸せでした。これからも家族で幸せに過ごしたいと思います。私たちがいつかの時の橋を渡るまで、もうしばらくかかると思うけど、待っててね。先ほども仏前に手を合わせてそんなことを話しかけました。母のブログを楽しく読んで下さった皆さん、本当に長い間ありがとうございました。ネットを通じてできた友人たちのお陰で、母は世界が広がったと思います。介護の息抜きにと始めたブログで、こんなにたくさんのお友達ができるとは!最初はネットで知り合った人と直に会うなんて大丈夫??と私は心配したものです。が、そのお友達夫婦とにゃお夫婦で郡山でゴルフするようなことになるとは、想像もつきませんでした。このブログを読んできてくれた皆さんに、ポテちゃんと仲良くしてくれて本当にありがとうございました。いつか、みなさんが虹の橋を渡ったら、またポテちゃんと楽しい時間を一緒に過ごして下さいね。あと、ご報告もひとつ。父の作品が数点旭川市の彫刻美術館に収蔵されることになりました。未来永劫父の作品があの美術館で収蔵され展示されるのかと思うと、とても嬉しいです。先日贈呈式が市役所であり、兄が出て感謝状を貰ってきました。母に、感謝状見せてあげたかったけど、間に合わなかったね...。と、兄としんみり...。ブログ写真の右端に写っているのがその感謝状です。旭川に来る機会がありましたら、是非とも父の作品を見に、彫刻美術館にもどうぞ足をのばしてみてくださいね。文才なく長くなりましてすみませんでした。最期までお読みいただきありがとうございました。ポテちゃん娘、にゃおより。