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ある内科医の独り言

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2007.01.22 楽天プロフィール Add to Google XML

誰が健康を守るのか

新年明けましておめでとうございます。随分更新が滞っていますが、久し振りに面白いネタが挙がってきたので一つ雑感を。

お正月早々、納豆が各地で売り切れというニュースを小耳に挟んでいた。どうせみのもんたが「お嬢さん、納豆いいですよ~」なんて売り込んでいたんだろうかと思っていたが、よく調べてみると「発掘!あるある大事典II」で紹介されたということだった。

まぁ、納豆自体は別に日頃から食されているものだし昨年春の白インゲン騒動のような健康被害は無いだろうと思っていたが、意外なところからボロが出てきた。番組の捏造である。

週刊朝日の記者がすっぱ抜いたらしいが昨日の同番組は中止、関西テレビは社長以下が会見を開き番組内での紹介内容に捏造があったと謝罪した。内容としては納豆を食べるとDHEAが増え、ダイエットに効果的というものだったが、アメリカの教授のコメントや実際に納豆を食べ、中性脂肪値が改善したとかやせたという被験者を紹介したりしていた。

週刊朝日の記者はわざわざアメリカの教授に電話をかけ、番組内でのコメントに関しては「そのようなことはいっていない」とコメント、また被験者の中性脂肪値に関しては採血すらしていないということをつかんだらしい。

確かにここまでくると「やらせ」とか「捏造」とかいわれても仕方ないだろうと思う。納豆自体に罪はないのに、何ともお粗末なお話だ。

昨今の健康ブーム?とやらにのっかっての番組だったのだろうが、深夜の怪しげなサプリメントを紹介するような番組ならともかく、いわゆる看板番組である。その影響の大きさは計り知れない。おそらくはこの番組を見て納豆を食べ出したり、食べる量を増やしたりした方も多いのではないだろうか?

結局のところ、事実とは遙かに違う歪曲された内容が公共放送として公開された、ということである。番組作成を下請けに出したとかチェック体制が甘かったとか、そんなことはどうでも良くって、とりあえず視聴者の健康は二の次、視聴率さえ稼げればいいんだという放送局の姿勢がうかがえる。

ただ、放送局側を一方的に責めていても何も始まらない。こうした歪曲は日常茶飯事に行われているからだ。先にも書いたが、深夜放送のサプリメント販売なんかで「やせた」とか「癌が治った(さすがに最近こんな誇張はないが)」なんていう内容はざらだ。画面の隅っこに「効果は個人により差があります」なんて言い訳みたいなテロップが入っているが、これも自衛のためなんだろう。

結局は視聴者側が信じる・信じないの問題なのだ。深夜の番組なら「ちょっと眉唾かなぁ」と思えることでもゴールデンタイムの放送なら「きっとそうなんだろう」という思いこみが一番危険なのだ。ましてや自分の健康に被害が及ぶかもしれないことならなおさらだ。

以前にもみのもんたの功罪について書いたことがあったように思うのだが、それと同じこと。「納豆がいい」「ココアがいい」「赤ワインがいい」「みかんが」「リンゴが」・・・結局、口にするのは視聴者だ。番組を信用するなとまではいわないが、盲目的に「右へならえ」的な発想はいい加減やめたほうがいい。これで死者でも出たら洒落にならない。

自分の健康は自分で守る、そのためには積極的な情報収集をし、取捨選択していかなければならない。人の身体は千差万別、十人十色。誰一人として同じ身体ではないのだから、他人には良くても自分にあわないことが当たり前だと思えるくらいの余裕を持つことだ。

様々な情報があふれてしまっている社会で求められるのは不要な情報を捨てる技術であり、それが自分の健康を守る手段だということも知っておいたほうがいいだろう。

最終更新日  2007.01.22 09:22:39


2006.10.25

泣きながら撤退

先日、奈良で起こった「妊婦たらい回し事件」が報じられるようになって数日がたった。事件の詳細についてはまだわかっていないことも多いが、当事者近くの医療関係者などから漏れ伝える話を聞きまとめると、事の真相はマスコミが報道しているものとは幾分違っているようだ。

このあたりの詳細についてはYosyan先生の「新小児科医のつぶやき」やphysician先生の「へなちょこ医者の日記(当直日誌兼絶望日誌)」医療関係者用の掲示板「m3.com Community(医師専用)」などでまとめられているので参考になさるのもいいかと思う。

いずれにせよ、今回の事件は不幸な事例なのだが、小さな不幸が重なって起きた事件であることは想像に難くない。初産・深夜という時間帯・地域特性・脳出血と子癇との鑑別・病院との信頼関係…それぞれ単発であれば何とかクリアできたかもしれなかっただろうが、こうした些細な出来事が積もり積もると全国報道レベルの大事件となる。

こうした事件はほとんどが「ああしておけば…」「こうしておけば…」という過去への反省だ。結果が前提として存在し、その結果を回避するためにはどうしておけばよかったのかを悔やむ事例が大半だ。事件が起こっている「渦中」の判断が正当だったか否かを問う声は意外に少ない。

先日、SankeiWebの【主張】で「病院たらい回し 患者本位の基本忘れるな」という一文が掲載された。その文末で「患者を救うのが、病院や医師の義務である。患者中心の医療の基本を忘れているから患者をたらい回しにし、患者不在となる。もう一度、医療とは何かをしっかり、考えてほしい。」と結ばれるのだが、「たらい回し」と「患者中心の医療」が同列で論じられれているあたり、少し論点をはき違えているような気がする。

確かに夜中にややこしい患者さんが来院するとなればあまり乗り気ではない。それは単に仕事をさぼりたいからではなく、自信がないからだ。「プロだからそれなりの自覚を持って仕事をしろ」といわれそうだが、やはり絶対的マンパワーの不足する当直時間帯は自分一人で乗り切れるという自信が湧いてこない。昨今の訴訟沙汰を見聞きしていればなおさらで、自分自身100%以上の力を出し切ったと思える症例でも結果が悪ければそれまでの努力はほぼゼロと算定される。仮に訴訟沙汰にでもなろうものならその勝敗がどうであっても精神的負担などは重くのしかかってくる。

患者中心の医療と声高に叫ぶ人たちは、まずその考えを再認識するところから始めることをお勧めする。「患者中心」と「患者の権利」の対極には現場で働く医療者たちの生活もあるのだ。ちょっとした微熱で夜中に受診するようなコンビニ受診が蔓延するのもこうした「患者中心」の考え方が一方的に大きくなってきたことに起因しているのではないだろうか。疲弊は次第に医療者側へと圧縮され、耐えきれなくなった病院や医師たちが崩壊していく。

こうした現実を直視してなお「患者中心」と叫び続けるのなら、一度医療者側の立場に立ってもらうよう切望する。

自分で対処しきれないと思ったときは、すぐに上級医師を呼ぶこと。それは恥でも何でもない。患者さんのことを真剣に考えているのなら面子にこだわってはいけない。それも立派なスキルだ

研修医時代の上司はこの言葉を口癖にしていた。血気盛んな研修医が暴走しなかったのはこうした上司の言葉があったからだと思う。オールマイティなど存在しない、だからみんなで力を合わせていこう、というメッセージだったのかもしれない。こうした力を合わせていけるような仕組みが構築されれば、今回のような不幸な事件も減少していくに違いない。

人間の手ではどうしようもないことがある「医療」という現場だからこそ、後出しじゃんけんのような「ああすればよかった」という言葉は御法度だと思う。「患者中心の医療の基本を忘れている」という安易かつ、とってつけたような論評がなされている限りこの国の医療は闇の中を彷徨うことになるだろう。

 

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最終更新日  2006.10.25 11:23:00

2006.10.02

臓器売買

臓器移植法違反で愛媛県警は宇和島市内の病院を10月1日朝から捜索しているとの報があった。

臓器移植は様々な問題を抱えているのは事実だが、基本理念は臓器移植法第2条に定められているように任意提供であり、人道的精神に基づきかつ公平な機会が配慮されるべきとある。

おそらくは氷山の一角だろうし、こうした金銭授受を伴う臓器移植は少なくないだろうと思われる。

たしかに臓器移植でしか救えない命もあるだろう。しかし、こうした移植に金銭授受を伴っていけないのはなぜかを改めて考えてみる必要がある。

まず、なぜ臓器を売ってはいけないのか。こうした議論は倫理や宗教の専門家たちが幾度となく繰り返しているのでそちらを参照していただければと思うのだが、僕個人の意見としては「歯止めがきかなくなる」の一点に尽きる。

臓器を売ってもよいということになれば、おおっぴらにはならないとしてもあちこちで臓器提供者が続出するだろう。あるいは他人を殺めてまで臓器売買に荷担するものもいるかもしれない。以前、「売血」(実際には血液を「購入」している形だが)という行為が公然と行われていた時期があったが、その結果が現在の肝炎を蔓延させる原因の一端となったことは誰もが認めるところである。

いずれにせよ、金銭の授受が伴うことで公平さや人道的な配慮が欠落することは当然だと思われる。

そして、売ってもよいということは買ってもよいということだ。

今回の事件では臓器を「購入」した人物と「仲介」した人物が逮捕されることとなったが、臓器を提供した側にも責められるべき点があるだろう。

闇金の取り立ててではないが「腎臓一つぐらい売ってこいや~(`ε´メ)ρ」とあたかも臓器がお金に替わってしまうような状況ではどうしようもない。身体をお金に換える、お金で身体を買う、それは売買春と本質的には何も変わらない。

今回の一件でどういった取引があったのかは今後の捜査を待たねばならないが、いずれにせよ安易な臓器売買は慎まなければいけない。

また、移植を行った病院側の姿勢も問われるべきだろう。まさか患者が替え玉だったとは思いも付かないかもしれない。普通はそうだ。しかし、臓器移植という最高レベルの倫理と技術を必要とする現場である以上、本人確認はもちろんのこと、こうした金銭授受がないかどうかやドナーとレシピエントの関係を詳細に把握しておく義務があるはずだ。少なくともこうした移植を行うためには「摘出」と「移植」の2ステップを踏まねばならない。そのどちらが欠けても移植は成り立たないのだから、「知らなかった」とする今回の病院の会見は少々お粗末だったように思う。

移植の問題は常に最高レベルの倫理観を要求される。安易に賛成や反対というのではなく、どうあるべきなのかを慎重に検討していく必要がある。おそらくは「白」「黒」という決着はつけられないだろう。グレーゾーンを渡り歩いていく問題だと思う。細かな規範を作っていくことによって今後の移植が成立していくだろうが、どの規範にも抜け道はある。そうしたルール違反が発覚した場合どのようなペナルティーが課せられるのか、そういったところまで踏み込んでいかなければならないのかもしれない。

技術の急速な成長とは裏腹に、我々の倫理観はなかなか進化しない。この乖離が存在する以上、今後同様の事件が起こらないとは限らないのだ。

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最終更新日  2006.10.02 09:05:04

2006.08.07

医療現場というグレーゾーン

先日、北海道立羽幌病院で起こった「消極的安楽死」事件に動きがあった。旭川地検は8月3日付で担当医師を不起訴処分としたのだ。最近の話題なので覚えておられる方もあるかと思う。

新聞記事はこちらを参照していただくとして、今回の事件はいったい何を語ろうとしているのか少し考えてみたい。

旭川地検の起訴内容は殺人罪だった。つまり、人を一人殺めたと判断したのだ。しかし現実には多くの病院で末期状態の患者さんに装着されている呼吸器を外すことが行われており、仮に今回の事件で起訴された医師が有罪になれば雨後の竹の子のように続々と殺人容疑で起訴される医師が増えることも予想される。

さて、病院という場所は相当な密室であるため実際に行われた治療内容などは本人や家族を含めごく限られた人間しか知ることがない。人間の「弱さ」を扱う場所であるが故、旧来より比較的プライバシーが守られてきた場所であろうかと思う。

今回の事件を誰が通報したのかは定かではないが、病院が変死体として届け出をしたことをきっかけに捜査が進んでおり、当事者たちに近い筋からの報告なのだろう。つまり、今回の事件を快く思わなかった、あるいは正義感に燃え、疑問を感じた人間が身近にいたということになる。

人の死を定義するのは難しい。難しいからこそ、安易に呼吸器を外してはいけないという理由もわかる。しかしまた逆に、安易に装着してはいけないということもこの事件は教えてくれる。

自発呼吸が確認できないまま人工呼吸器を外すということは、呼吸停止を意味する。呼吸が止まればいずれ人間は心停止となり、世間一般でいう「死」を迎えることとなる。

人工呼吸器を外すことの議論は深まる一方で、実は装着についての議論というのはあまり深まらない。人工呼吸器の装着の判断については現場の医師の裁量によるところが大きく、担当医が見込む「予後」と密接に関わってくる。予後不良と判断されるようなケース、たとえば末期癌の患者さんなどに人工呼吸器をつけることは正しいのだろうか? 逆に救命の見込みがある患者さんに人工呼吸器を着けない場合はどうだろうか? いずれにせよ人工呼吸器という装置はその場の呼吸機能をしのぐものであって恒久的呼吸を得ようとして行っている治療ではない。

しかし現場では悠長に考える時間などはない。従って人工呼吸器を装着した結果、その先に待っている状況がどうなるのかを医師は瞬時に判断し対処せねばならない。

原因不明の心肺停止状態で運ばれてきた患者さんがとりあえず心拍のみ再開したような場合は人工呼吸器を装着して時間を稼ぐことが重要になってくる。稼いだ時間で原因を究明し対処していくことが可能だからだ。しかし、その後の検査結果で回復不能と判断された場合はやっかいだ。呼吸器を着けなかったら原因がわからなかった、しかし原因は回復不能な病態だった…。

「つけなければよかった」と思ったとしてももう後戻りはできない。医師の宿命は「積極的」救命とされているからだ。確かに、積極的に救命を続けていれば何も問題は起こらない。だから家族が何度訴えてもどうしても呼吸器を外してくれないからといって訴訟を起こしたという話は聞いたことがない。

しかし、現実は違う。残された家族や治療に当たる医療者たち、そして物言えぬ本人の狭間でぶつけようのない嘆きや悲しみが行ったり来たりしているのだ。

先の新聞記事では

>同地検は複数の専門医らに意見を求め、「呼吸器を取り外さなくても余命は10数分程度だった可能性があり、取り外したことが死期を早めたとは断定できない」との結論になったが、「余命わずかと断定できる証拠もない」とし、「嫌疑なし」とはしなかった。

とあるが、その通りだろうと思う。余命なんて誰にもわからない。後出しじゃんけんみたいな言い訳が通用しないからこそ慎重な議論がなされるべきだろうし、呼吸器装着に関しどう捉えていくのかも考えていかないといけない。

グレーゾーンの真っ直中におかれているこうした医療問題を、あっさりと起訴してしまう昨今の風潮はどうだろうか。白黒をつけるのが検察や法律の仕事だとはおもうのだが、医療現場ではまだまだ多くの現実が白黒つけがたいことを物語っている。裁きの前にこうした現実をどう考えているのか、今回の立件に関与した人間は再考すべきだろうと思う。


最終更新日  2006.08.07 10:03:54

2006.07.21

職場と家庭とATOKと

ずいぶん久しぶりの更新になった。いろいろと理由はあるのだが、まず一番大きな理由は職場の変更だった。慣れない職場に順応するのが精一杯で、時間はあるのに書くための心の余裕がないというジレンマ。まだまだ順応するには時間がかかるだろうがこつこつやっていきたいと思っている。

次に大きな理由は家庭だ。先日生まれた子供はすでに6ヶ月になり、泣くわわめくわで大変だ。特に夜中に泣かれると辛い。しかし誰もが通っていく道なのだからとここは一つ奮闘中。子育てを経験してみて思ったのは、嫁さんの努力が並大抵のものではないということだった。つきあって結婚して今までみたこともなかった「母性」が見えるようになったのが大きな理由だろうか。風呂へいれたり、遊び相手になることはできても、やはり母性の持つ優しさや寛大さにはかなわない。子供自身はそんなこともわからないのかもしれないが、肌身で感じていることだろう。まぁ、これほどまでに大変だと思っていてもそれほど苦にならないのは子供の笑顔があるからか。子育ての方もビギナーながら何とかがんばっていきたいと思っている最中だ。

そして最後にATOKだ。「一太郎」や「花子」で一世を風靡したジャストシステムのインプットメソッド。僕は今までほとんどの文章をこのATOKで打ち込んできた。メールや日記は当然のことながら、ちょっとしたプレゼンや論文までまさに手足という感じで使ってきた。ATOKとMacが紙と鉛筆みたいな感じだったのだ。しかし今年に入ってからのMacはすべてIntel化されており、OSの根本部分から大きな変更がなされた。見た目はPPCのOSXであっても中身はまるで別。従ってシステムの内部に組み込まれるATOKは今までのものが使えないということになった。

泣く泣くApple謹製の「ことえり」を使ってみたりしたものの、やはりしっくりこない。文節の変換など微妙に異なる点も多いしUIも違う。とてもじゃないが使う気になれなかった。また、ATOKとライバル視されるEGBridgeは早くからIntelMac対応し体験版も公開されたため早速使ってみた。なるほど、キー配列や変換の動作などはATOKとほとんど変わらない。しかし、変換される文章や候補などはATOKとは大きく違うものだった。なれればEGBridgeでも全然問題なさそうだったが、慣れようとする気も起こらずお蔵入り。IntelMac用のATOK発売を待つことにした。

先日、やっとIntelMac用のATOKが正式に発売された。早速購入しインストール。特に不具合などなさそうになったのでやっと紙と鉛筆がそろった感じになった。なお、今回のATOKに関してはベータテストにも参加し、トラブル報告などを行った。そのおかげかベータテスターの名前がクレジットとして記載されるというおまけがついた(笑) 

そして、こうしただらだらとした文章を書くときこそ紙と鉛筆はなじみのものを使いたい。ストレスのない作成ができるからこそ次から次へと発想できるようになるのだ。

職場や家庭やIMなど、日記から遠ざかるいろいろな悪条件が揃っていたがそれも改善されつつある。ぼちぼちとだけれどもまた更新を始めようかと思っている。ログを見ると更新もしていないこんなくだらないページでも200-300/日程度のカウンタが回っているので、きていただいた方にも失礼だろう。

あまり過度の期待はしないでほしいが、思っていることを書き出せる、そうしたページを作っていきたいと思っている。

baby


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最終更新日  2006.07.21 16:59:51

2006.05.17

医師過剰は本当なのか

最近、あちこちのブログで取り上げられることが多くなった「当面の医師確保対策(案)について」だが、卒業を前倒しにするだの、医学部の定員を増やすだの様々な議論が交わされている。また、かのmedtoolz先生はこうした意見の是非はともかく、「どれだけ大きな反響を作ったか」が重要であり、昨今の情報発信技術の進歩に言及されている。

さてさて、ここからは僕の独り言。

医者の数が多いか少ないか、そんなことは現場の人間にはわからないのが本音だ。確かに「もう少し医者がたくさんいればなぁ…」と思う場面は少なくない。しかし、毎年同じ程度の医籍登録者があり、引退する年限も決まっていない訳だから現状では決して医師数が減っているというわけではないだろう。厚生労働省でもこうした議論は当然のことながら尽くされているのだが、あくまでも切り口は狭く、本質にはたどり着けていない。

統計的にみれば医師数は決して少なくないらしい。しかし、現場の感覚はとても医師数が多いとは思えない。このギャップはやはり仕事の内容が加味されていないことから生じているものだと思われる。

楽な仕事であれば働く医師数はそれほど必要ないだろう。逆に厳しい仕事であれば今以上に医師数が必要となる。昨今医師不足が叫ばれている背景の一つにはこうした必要以上の激務があるのではないだろうか。医師数を増やすべきなのか、それとも仕事の負担を軽減すべきなのか、いずれにせよ今すぐに解決できる問題とはとても思えない。

しかし一言いわせてもらうならば、医師数が不足しているから負担が増えた、ではなく「負担が増えたから医師数が不足した」という感が強い。特に小~中規模で展開する地方の公立病院などはろくなバックアップもないままに負担だけが増え、結果として医師数が減っていくという悪循環に陥っているように思える。救急の現場ではさらにそういった思いが強い。健康への関心が高くなり、テレビやインターネットで容易に種々雑多の情報を入手できる今、病院という場所は特殊なものではなく、いつでも気軽に出かけられる場所となった。

さらに、異常とも思える医師への訴追なども一因としてあるのかもしれない。

しかし、その結果必要のない受診者が増えたり、逆に必要な患者さんが受診できなかったりと弊害も起こっていることは事実だろう。「患者さんは素人」だからこちらとしても強くは言えない。でもちょっとした発熱や感冒症状だけで中規模以上の病院を受診しなければならない理由はない。

せっかくこれほどまでに情報発信技術が進歩しているのなら、受診について改めて考えさせる情報がもっとあふれてもいいと思うのだ。

単に数が多い・少ないといった算数的な議論ではなく、その背景にいったい何があるのかをちょっと立ち止まって考えるだけでもずいぶん変わるのではないかと思う。もし不必要な受診のために現場の医療者たちが悲鳴を上げているのなら、負担軽減だけで名実ともに医師数は充足することになると思うのだが…どうだろう?

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最終更新日  2006.05.17 11:59:24

2006.05.11

吉野家コピペ

そんな事より1よ、ちょいと聞いてくれよ。スレとあんま関係ないけどさ。
昨日、近所の衆院厚労委員会行ったんです。衆院厚労委員会。
そしたらなんかお偉いさんがいっぱいで立ち見なんです。
で、よく見たらなんか「長い目で見れば病気を減らすことができる」、とか書いてあるんです。
もうね、アホかと。馬鹿かと。
お前らな、医療改革法案如きで普段来てない衆院厚労委員会に来てんじゃねーよ、ボケが。
医療改革法案だよ、医療改革法案。
なんか親子連れとかもいるし。一家4人で衆院厚労委員会か。おめでてーな。
よーしパパ質問しちゃうぞー、とか言ってるの。もう見てらんない。
お前らな、熱いお茶やるから帰れと。
衆院厚労委員会ってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ。
Uの字テーブルの向かいに座った奴といつ喧嘩が始まってもおかしくない、
刺すか刺されるか、そんな雰囲気がいいんじゃねーか。女子供は、すっこんでろ。
で、やっと座れたかと思ったら、民主党の郡和子議員が「厚労省の政策はいたずらに国民の不安をあおるものだ」、とか言ってるんです。
そこでまたぶち切れですよ。
あのな、「厚労省の政策はいたずらに国民の不安をあおるものだ」なんてきょうび流行んねーんだよ。ボケが。
得意げな顔して何が、「不安をあおるものだ」、だ。
お前は本当に「いたずらに国民の不安をあおっている」と言いたいのかを問いたい。問い詰めたい。小1時間問い詰めたい。
お前、「いたずらに国民の不安をあおっている」と言いたいだけちゃうんかと。
衆院厚労委員会通の俺から言わせてもらえば今、衆院厚労委員会通の間での最新流行はやっぱり、
高血圧、これだね。
肥満・高血圧・糖尿病。これが通の頼み方。
高血圧ってのはARBをちょっと多めに。そん代わりCaブロッカーも味付け程度にかます。これ。
で、それに肥満・糖尿病。これ最強。
しかしこれを頼むと次から民主党の郡和子議員にマークされるという危険も伴う、諸刃の剣。
素人にはお薦め出来ない。
まあお前らド素人は、家で寝てなさいってこった。

元ネタはこちら
まぁ、どうでもいいことなんだけど。

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最終更新日  2006.05.11 07:52:22

2006.05.05

生活の一部と化した通院

ずいぶん長い間ご無沙汰していました。慣れない勤務で更新するほどの余力がなかったことが大きな原因ですが、新しい職場にも少しずつ慣れてきたのでボチボチ更新していこうかと思っています。メインマシンがMac miniからMacBook Proに変わり、秀逸なIMが使えなくなったこともやる気をそぐ一因です。ATOKは現時点ではintelMacに対応しておらず、また試用版で提供されるEGBridgeはなんか変換効率がいまいちです。標準IMの「ことえり」は賢くなったとはいえカスタマイズがほとんど不可という状況は変わらず。とりあえずまだ使えるEGBridge試用版を使っていますが、ストレスフルな状況は変わりません。長い間ATOKで染みついてしまった「慣れ」はなかなか抜けそうにありません。皆さんはいったいどんなIMを使っておられるんでしょうかねぇ? 「弘法筆を選ばず」とはいいますが、どんなIMでも同じように使えるわけではないでしょうから気になるところではあります。

閑話休題

新病院へ赴任して約1ヶ月。今日も朝から勤務。以前の公立病院なら5連休だったろうが、さすがにそうはいかないようだ。透析設備を持つ病院のため患者さんは休みなど関係なくやって来る。お互い、休日ぐらいゆっくりと…と思っていても身体はそれを待ってくれるわけではないからだ。

基本的にはルーチンワークに終始するため顔ぶれも同じならすることも同じ。時間もほぼ同じで、違うことといえば季節によって移ろいゆく窓の外の景色くらいか。だから休日の勤務といっても救急のようにあたふたすることはなく、きわめてゆっくりとした、しかし終わりのない時間が流れているだけだ。

生活に組み込まれた通院。もう、病院は家の一部と化している。基本的には「死ぬまで」通院を続けなければならない人たちばかりだ。だれも好んで透析を始めたわけではないだろうが、それにしてもほかの病気と違って先行きへの閉塞感は強い。

治る見込みのない病気。しかしすぐに悪くなるわけでもない病気。何年か、何十年か…先行きの見えない病気。今まで持っていた病気への概念を根底から覆してしまうような状況が目の前にある。

うちの病院へやってくる患者さんはもちろん、透析患者さんだけではない。肺炎や腹痛は今までと同様だし、しんどい病(笑)も少なくない。ただ、今まで診ることのなかった一種異様な雰囲気を持った患者さんたちが日常生活を送っていることに驚きを禁じえなかったのだ。

急性期から慢性期まで。一生涯で経験する病気には多種多様なものがあることを再確認しつつ、これからも勉強していかないとなぁ、と思う。

最終更新日  2006.05.05 22:11:19

2006.04.15

心機一転

職場を変わってすでに2週間が過ぎた。実際には最初の1週間はお休みをいただいていたので家で子供の面倒を見る毎日だったが、やはり仕事を始めるときというのは緊張する。おまけにネット環境も後手に回ってしまったので更新もずいぶん遅れた。これからはなるべく更新していきたいとは思うのだがどうなるだろうか?

さて、先月まで数年勤めた病院はいわゆる「公的病院」だったが、今度の病院は違う。一族郎党で立ち上げた「私的病院」だ。したがって患者さんの満足度はもちろんだが、それ以上に利益を追求することが至上命題となる。病院がつぶれてしまっては患者さんを満足させられないどころか迷惑をかけてしまうからだ。当然、コストのかかるドクターの数は圧倒的に少ない。今まで放射線技師さんに任せきりだったCTなんかも全部自分で撮影しないといけない。循内のドクターにお願いしていた心エコーも自分で施行しないといけない。今までまったく経験したことのなかった仕事がそこには待っていた。
さまざまな設備も最新のものからオンボロまでそろっているのも特徴だ。以前の病院ならおそらく「倉庫行き&二度と日の目を見ない」であろう内視鏡ですら現役で働いている。無駄を徹底的に省く、という意気込みが随所に感じられる。しかし決して清貧なわけではない。スタッフの給料は毎年きちんとベースアップしているようだし、新規の設備投資も行っている。そしてそれなりの黒字。以前の病院なら考えられなかった経営感覚が現実にある。事務長も敏腕だった。経営にはスタッフの参画が不可欠と考えているため主任以上のスタッフは全て経営会議に出席。コスト削減のアイデアや、環境改善、リスクマネジメント…あらゆるアイデアが会議の席上で発言され、議論されている。
あまりのパワフルさに少々怖気づいてしまっている自分が情けないが、しばらくしたら慣れるのだろうか。幸い、周りのスタッフたちには恵まれたようなので肩肘張らずマイペースでやってみようと思う。取り敢えずいままでしたことも無かった検査や透析の勉強など一から始めなければならないことも多いが、今までの経験を生かしつつ病院や患者さんに貢献できれば、と思う。

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最終更新日  2006.04.16 01:42:41

2006.03.27

一方通行の先に見えるもの

先日、富山の病院で患者さんに装着されていた呼吸器を外し警察が捜査に乗り出したことが報じられた

今後の動向も注目されるが、この手の報道は雨後の竹の子のようにぞろぞろと出てくる。安楽死・尊厳死なのかそうでないのか、判断が非常に難しいだけに一概にいいものとも悪いものとも決めつけられない。

今回の外科部長は少なくとも数人に対し呼吸器を外したということになっているが、報道はされなくとも同じような事件は表沙汰にならないだけであちこちで起こっているはずだ。

森鴎外の代表作に「高瀬舟」がある。弟殺しの罪状で遠島を申しつけられる兄の話だ。死にきれない弟を介助してやったら死んでしまった、という話なのだが作者自身、この安楽死に対する深い洞察は描いていない。安楽死に対する考え方は今も昔も、洋の東西を問わずなかなか一定したものが得られていない。

そして今回の事件で考えておかねばならないものがある。それは、今回の事件がなぜ警察の捜査の対象となったのか、ということだ。内部告発によるもの以外には考えられないが、こうしたことからも呼吸器を外すことにためらいを持っているスタッフがいるということはわかるはずだ。

確かに、我々の使命は病気の平癒である。これが達成されるために様々な知識や技術を用いているのだから当然といえば当然だが、一方で平癒できなかった場合のことは余り多く語られない。それは医療の敗北であると信じられてきているからだ。

しかし、実際にフタを開けてみれば圧倒的に平癒できない患者さんのほうが多い。そのなかでも特に問題となるのは死ぬのを待つだけの患者さん達だ。

今回の7人はいずれも末期癌であったようだが、彼らはいずれも死ぬのを待つだけの存在であったのだろう。呼吸器が付いていることからも、一度は危篤であったものの呼吸器装着によってかろうじて生きながらえた、という感じがうかがえる。

人工呼吸器の発達によって、今まで救えなかった患者さんが多く助かるようになった一方、死にたくても死にきれない患者さんが増えたという事実は見逃せない。

テレビのドキュメンタリーなんかで出てくる呼吸器はほとんどが「生き抜くため」の呼吸器だ。末期癌で明日をも知れない命をかろうじて呼吸器で引き延ばしている患者さんや家族の苦悩は余り報道されない。

治療はすべて平癒への一方通行だ。我々の行為はそのすべてが平癒にしか向けてはいけないことになっている。仮に、平癒できないのであれば緩やかに速度を落とすしか方法はない。間違っても逆走したり停止したりしてはいけない、これが医師の宿命らしい。

平癒し得ない(このあたりの線引きは難しいのだが)患者さんに呼吸器を装着するということは、ブレーキのかからない治療になったことと同じだと思っている。そのブレーキのかからない治療であえてブレーキをかけた外科部長の心情はどのようなものであったのだろう。

すでに50歳という年齢からも数多くの患者さんを看取ってきたに違いない。敗北や挫折感も相当味わってきているはずだ。にもかかわらず、今回の事件。マスメディアもセンセーショナルな取り上げ方をしているが、余り深い洞察は感じられない。人工呼吸器を外すことが本当に悪なのか、その基準も示されないまま事件は一人歩きしていく。

市長は

「100歳で亡くなっても、遺族の方は『もう少し長生きしてほしかった』と思うのが人間の本当の姿。患者さんが元気になることに最善を尽くす。これからもそういう病院でありたい」と目に涙を浮かべながら語った。


ということらしいが、現場も見ないうちからこうした発言をするのもどうかと思う。天寿を全うして死ぬのではない。生きながら死に、死にながら生きるという複雑怪奇な現状をどのように理解しているのか、それを語って欲しかったと思う。

いずれにせよ、しばらくはこの事件も報道され続けるだろう。しかし件の産婦人科医師逮捕の事件も下火になったのを見ても明らかなように、こうした話題はいずれまた風化する。

事件を風化させてしまえば、また同じような事件が起こるだろう。メディアとしてきちんと報じた以上、今後の展開も責任を持って報道する義務があるのではないか。センセーショナルに書き上げて「はい、おしまい」ではなく、この事件の背後にある現状、そして我々一人一人が持っている死生観を見つめ直していくことが最重要課題なのだと思う。

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最終更新日  2006.03.27 17:08:05


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